賀春。年明けということで、殊勝な話でも。

 「きっとわたしも見透かされているのだろう」と、最近、よく思う。
 誰かの話を聞いて、嘘だな、と思う。誰かの行動を見て、浅ましい、愚かだと思う。私がそう思うのと同じように、わたしもまた、そのように誰かから見透かされているのだろう。
 だから、最近、わたしは、ここでなにかを書くというのが以前と比べて少しばかり、怖い。
多くの人がわたしのテキストを見ているという事実がわたしをひるませる。
 とはいえ、ご立派な、誰も否定することのできないご高説やら正論やらを語るのもなんだか恐ろしい。

 私が最近好きな歌に高橋鮎生の「The Holy Man and the Sinner Within」というのがある。英語で歌われているその詞を概要は、以下だ。


 ――誰もが敬う丘の上に住む聖者、しかし彼の内面にはつねに狂気が巣食っていた。そしてある日、彼はコントロールを失った――
 ――天国を見まがうほどの、平和で調和が完璧にとれた村、しかし穏やかそうに見えるその村人たちの奥底には深い怒りが眠っていた。ある日、殺し合いがはじまり、そして村は崩壊した――


 真、善、美。それはとても素晴らしいことに違いないが、ゆえに、遂行するのは、難しい。
聖人たらんとするのは立派なことだけれとも、そんなに簡単に聖人になれるほど人間という生き物の業は浅くない。罪は内へ内へとひずみ、そしていつしか奔流なって、外に溢れるだろう。


 わたしのサイトにある文章は、はたして「評論」なのだろうか。これもまた、最近よく思う。
 ワン・オブ・ゼムである「私」という人格が、なにかに触れた時に思う、感想であったり、意見であったり、という程度で、もちろん、私にとって、それらは正しいものではあるけれども、わたし以外の人間にそれが通じるとはまったく思っていない。
 わたしがそう思うように、それぞれがそれぞれの真理なり正義なりを信奉していただければいいし、それを侵犯するつもりはない。
 「評論」の持つすべてを貫く客観性、普遍性、真理を捉えようとする透徹さを、わたしの言葉は持ち得ないだろうし、そもそもわたしはその厳しさに耐えうる人格を持ち合わせていない。
 ――が、しかし、わたしの言葉をそのようなものとして、受け取る人が最近少なくはない。そして、そのような言葉を意識してしまう自分に時々気づき、そら恐ろしくなる。


 丘の上の聖者は、最初から聖者たらんとしたのではないだろう。
 聖者だと周囲から敬られたから、聖者になろう、そう思ったのだろう。


 美しいものは美しいし、すばらしいものはすばらしい。だけれども、わたしは、浅ましい。わたしは、弱い。わたしは、愚かしい。
 それを自覚し、どうしようもない自分を小出し小出しにさらけ出して、生きていこう。
 まあ、自分も、たいしたものではないけれども、そこにいるあなただって、結構お互い様じゃないさ。
 と、いうわけで、今年のわたしのテーマは赦しと愛にしたい、というのは嘘だが、まぁ、そんなこんななわたしなのである。
 もうちょっと、色々と気楽になれたら、いいよね。あなたも、そしてわたしも。