丸田祥三

私は廃線や廃道、廃墟などの写真を見るのが好きだ。
うち捨てられ、物静かに朽ちていくものどもを見ていると何故か心がしんとなる。
錆びた鉄路や鉄塔、忘れ物のように取り残された煉瓦の土台など、役目を終え静かに眠りについているものども。モノに秘められた記憶からかつての日々を、そして過ぎ去った歴史に思いを馳せる。

私が好きな写真家で、丸田祥三という人がいる。
彼は廃墟や廃線、またそれらに近しいところにある歴史からとりのこされたような鄙びたものどもなどを被写体とした作品を多く残している。
君が忘れていた遠い記憶の片隅にこんな悲しいものが隠れていたよ、と彼は静かにわたしたちの前に手を広げる。
その手のなかには、子供の日の思い出であった輝かしいものどものその後のありきたりで残酷な顛末がそこには横たわっている。
彼の視線は常に静謐で、そこには呆然となるほどの無常感がある。
生きることというのはどうあがこうとも紙切れのように虚しいものなのだということに気づかされる。物もいわずにこちらを見つめている生を終えたものたちがそう語っているのだ。
あらゆるものが死ぬために生まれてくるのだ、ということを。
それは死者からの呼び声だ。
その声は日々の暮らしでは決して聞こえないようなひっそりとしたかそけき呼び声だけれども、不意にその声が胸の奥底まで届き、心をどよもす時がある。
例えば夏のおわりの夕暮れであるとか、夜明け前の冷たく濃い蒼が空一面を満たす時であるとか、そんな時、不意にそれは聞こえてくるのだ。