サイト運営から知り合ったある知人から「まこりんさんはとても不器用な人にわたしは感じる」といわれた。それに、そうだ、とも、違う、ともわたしはいえない。鏡の前に立つと自然と表情を作るように、わたしはわたしの本当の顔を知らない。不器用に映るのなら、そうなのだろう、としかいえない。ただ、時々、あらゆる雑事が面倒くさくてたまらなくなるのは確かだ。


いつもいつも思っているのだが、世の中の多くの人っていうのは、どうしてこうもエネルギッシュなのだろう。睡眠時間すら削って、いつもいかなる時も、みんながみんな必死に自分を満たしていく。
わたしはただ何も考えずに、布団の中で惰眠をむさぼったり、唐突に途上に立ち止まってぼんやりと空を眺めたり、机の上に白紙のノートを広げつらつらと自分の感情をいったり来たりするのが何よりも好きな、ひとり上手でだらしがない性分なので、そういった人たちを見るにつけ、忙しいなぁ、大変そうだなぁ、なんでそんなに急がなくっちゃいけないんだろう、とまるで異郷の民を見るような眼で見てしまう。
もちろん、そう感じるというのは、私のほうこそが異邦人であることのなによりもの証であって、わたしときたら、そんなハイタッチでハイペースな世の中に着いていくのに必死の日々で、それこそ小学生の頃から、乗り遅れてはいけない列車に間に合わせようと必死に走っているような、そんな気分なのである。


ふと、些細なきっかけではじめたこのサイトだが、いつのまにか多くの人が閲覧に訪れる、大きなサイトに成長してしまった。それは私の望みでもちろんあったが、とはいえ、今、わたしの心には「ここもいつしか私にとっては『乗り遅れてはならない列車』になってしまったなぁ」という感慨が大きく占めている。


ふとしたきっかけで、このサイトの日記の更新すらもない状態が10日ほど続いたが、そんな思いがけない休暇は、これほど自分がこのサイトの縛られていたのだ、ということを気づかせるのに充分だった。今までなにを必死に、そんなにまでむきになって……。
気がつけば、サイトのために書いている、そんなテキストもある。別にわたしが言うことでもない、わたしのなかにさしたる愛も見識もない、そんな素材に手をつけている、というのもある。まるで、サイトで語ることがなにかの保証かのように、どうでもいいテレビの内容や、どうでもいい作品にまで、偉そうに講釈ぶっている自分をそこにみつける。
よくもまぁ、偉そうに……。


この年齢でこんなことをいうのは口幅ったいが、わたしはできる限り本質であり、愛でありたい、と強く、今、思う。どんな知識も、どんな小手先の器用さも、どうでもいい。わたしが必要なのは、あらゆる日常の垢をぬぐいさった内側に眠る、本質。それは、孤独で悲しいひとつのいのちである。それを余計な修辞なしに、ただじっと、みつめていたい。その凝視は、きっと愛という言葉に一番近いものだろう、とわたしは信じている。
できればこのサイトも、そんなひとつの愛であれば、とわしたは思いを新たにする。



と、こんなことをこんな時期に書くと何か思いつめたようで、ちょっといやらしい感じもするが、いつものわたしですから。はい。また近々、大長編のテキストのアップも予定しております。