キモいからこそ、栗本薫。

 栗本薫のJUNE全集をブクオフで購入。函入り上製本 定価3500円という価格設定に発売当初は華麗にスルーしたのが、いまやブクオフで500円――。……なにもいうまい。

 久しぶりに本気汁の薫を堪能して気づいたことがあった。

 1 本気になると、登場人物がキモくなる。
 2 本気になると、登場人物がみんな栗本薫(――というか、山田純代)そのものになる。

 つまり、キモオタの純代である攻の青年が、キモオタの純代である受の美少年を
 「をををを、お前は、俺とおんなじ種族。俺たちにとって、この世は、あまりにも過酷な世界。そうだろう――」
 とかいって、頬すりすりしている、という世界なわけで。

 脚本・演出・主演・助演・脇役すべてが純代、100%純代印、純代オンステージ、純代発・純代行きの夢列車、という感じになって、まぁ、あまりにも素敵過ぎます。
 編集からの頼まれ仕事とか、作者の思い入れのあまりない作品だと、キモ臭はかなり抑えられているんだけれどもね。やおいとか、本人が書きたいから書いている作品となると、とどまることを知らない。 「翼あるもの」とかもさ、巽さんが、藤竜也イメージのはずだったのが、唐突にお面がぽろっと取れて、地金の栗本"キモおた"薫があらわれて「ををををっっ」とキモい心情吐露をだらだらするのとか、非常に素敵としか、いいようのないわけで。

 ――まぁ、このねっちりねっちりしてキモいところが私が薫から離れた要因なのかな、と改めて認識した。
 面白いかと問われれば、面白いんだけれども、なんというか、やっぱ、疲れる。
 めんどくせーー、って思ってまう。
 そんないつまでもぬちゃぬちゃしている子には、晩ごはん作ったげないわよっ、とかいいたくなる。

 とはいえ、薫の大ファンはその粘着質でうっとうしい部分こそがツボなようで、 近頃、休日になるたびにかおりんの大ファンの家人と「どうして栗本薫はダメになったのか なにが栗本薫をダメにしたのか」と数時間しみじみ語り合っているのだが、彼曰く、
 「キモくない薫なんて、薫じゃないよ」
 「薫の小説のキモさは、薫だからこそのオリジナルな個性を感じる」
 とーー。
 まあ、ただ問題なのは、キモい面白小説を書いていた人が、いつまにか、本人がキモイだけのつまらない小説を書く人になってしまったという、それだけなのかな、と。
 ともあれ、がんばれ栗本薫。と女性週刊誌の記事バリに唐突な心のない声援で〆る。