人は誰だってナイフになれる

自分の言葉の稚拙さに、時々絶望する。わたしなんて愚かなのだろう、と。
「口舌の刃で人を斬る」という言葉がある。
そういう事があってもいいとわたしは思っている。
傷つけること傷つけられることを私は恐れたくない。
ただしそれは明らかに論敵とみなしたものに対して、正々堂々と一対一で相対した時にのみ、有効なものである、と思う。
味方にたいして、あるいは不意打ちに食らわすものでは決してない。
しかしわたしは、わたしの言葉のナイフは、時として、傷つけるべきでない人に向かって、振りかざしてしまう。
「そんなつもりではなかった」
それが不慮の出来事であっても、しかし痛みは事実としてそこにあり、その責任は私のものである。
それをどう受け入れればいいのかわからずに、そのたび、わたしは立ち竦む。

あなたに共感したい。あなたを受け入れたい。
「あなた、ウェルカム」
なにかを言葉にして伝える時、可能な限り心の胸襟を開いて受け止めたい。
そういう人でありたいと、せつに願っているが、現在に於いてそれは、はるか彼方にある理想に過ぎないといわざるをえない。
自分の中にあたたかいものが湧き上がって来ない時、自分の心が黒いもので閉ざされている時、私の言葉は容易くナイフになる。
そして、迂闊な手つきで傷つけるべきでない人にまで、傷つけてしまうのだ。
私は言葉の使い手としての稚拙で、その覚悟も未熟なのだろう。
もしわたしの文を読んで、怒りや悲しみ、あるいは傷を感じた方がいたから、ひたすら「申し訳ない」と言いたい。
もうすこし、心の大きな人間になります。