芋炊きの季節

重信川から見る月は、今年も美しいだろうか。
四国の愛媛には、秋に「芋炊き」がある。
宵から夜更けにかけて河川敷に集まって、里芋や鶏肉や白菜の入った鍋を囲む――という、つまりは花見の秋版といったもので、西日本では愛媛だけの文化なのであるが、東北地方全般では「芋煮会」と云う名で有名である。
なぜ東北地方の年中行事が愛媛に飛び火して定着しているのかは、よくわからない。愛媛の芋炊きの歴史は300年あるという。
14歳の秋、四国の松山に移り住んだわたしははじめて芋炊きに参加した。
なんでこんな薄ら寒くなった季節に、わざわざ寒々とした広い河原にまで出て芋汁をかきこまなくてはならないんだ。意味がわからない。
まだ若く、頑なだったわたしは、その土地土地にある固有の風土や習慣に馴染むことをよしとしなかった。
どんなところでもそうであるが、文化というものは、その土地への無条件の信頼と愛の裏付けがあって初めて定着する。
土地神という言葉を出すのもなんだか口幅ったいが、つまり愛媛ににあって異邦人であったわたしは、郷土愛というものが、面映かったのだ。
彼らは無邪気に愛していて、しかしわたしにはそれが出来なかった。
方言を最後まで覚えようとも思わなかったし、そうした地方色の濃い行事ごともできるだけ避けて愛媛での五年を過ごした。
その五年を除いて、東京近郊のベッドタウンという、ただ近代的なだけで何もないのっぺりとして無個性な街に、私は暮らしている。
すこしは大人になってすこしは心に余裕が出来た今なら、意固地に心を鎖さずに松山だけにある様々な事柄を楽しめるような気がするが、それは最早かなわないことである。