嶽本野ばら 「エミリー」

エミリー (集英社文庫)

エミリー (集英社文庫)

レディメイド」「コルセット」「エミリー」の三篇収録。
・「レディメイド」……素敵な殿方と美学談義しているうちにいつしか恋に発展してミャハッ☆……っていう、野ばらちゃんのためだけにある妄想掌編。徒然草以来の典型的なオカマ日記。
・「コルセット」……死ぬ死ぬ詐欺の青年が地雷女と恋に落ちて死ねなくなってしまいましたよという話。
・「エミリー」……いじめられっ子のゴスロリ少女といじめられっ子のゲイ少年がいろいろあって恋に落ちたけれども、性欲の不一致でセックスはできませんでしたよ、という話。


 ええいっっ。うっっっといしぃわぁっっっ。
 わたしが先日あげた「デウスの棄て児」の感想を読んだ友人から、「『デウス〜』はJUNEだったかもしれないけれども、野ばらちゃんは本質的にJUNEっ子ではないよ」との密告を受けたので、続けて読んだのがこれ。たっっしかにこれはJUNEではなかった。てか、うざかった。ブランドの固有名詞だとかファッション・モード・美学談義だとか、そういうトリビアルな部分が、特に。
 なんだろー。この人結構年行っているのかな? ファッションやらなんやらの劣化の早い文物の列挙とか、それこそ田中康夫の「なんとなくクリスタル」とか、中森明夫の「東京トンガリキッズ」とか、ああいう80年代のイタイ系の雰囲気なんだよな。YMOとかニューウェーブとかニューアカとかへんたいよいこ新聞とか宝島とか若者たちの神々とか、そういう時代の雰囲気をそのまんま。現代日本の少年少女を扱った作品だけあって、ふっとした描写に「古さ」があるんだよね。この感覚は、この経験は、明らかにわたしよりひとまわり以上は上の世代だな、って肌で感じる。そこはかとなく漂う橋本治な自意識の塊的めんどうくささも、実に80年代的でね。80年代を生きたゲイのサブカル好きッ子の心象風景、みたいな、そんな一冊。これが確信犯ならいいけれども、別に野ばらちゃん自身、80年代オマージュのつもりはないんだろうあたりがちょっとイタい。
 三島由紀夫賞候補になった「エミリー」も、うーん、どうなんでしょ。主人公・エミリーが中学校で恒常的にいじめられているっていう描写が古く、かつ漫画的なテンプレのデフォルメで「ねーよ」としか思えなかったわけで。そんな主人公・エミリーといろいろあった末、色んなところが盛り上がって、ラブホ行ってペッテングまで行ったけれども勃たずに挿入はできなかったっていうゲイの少年も、なんだこりゃ、っていう、ちょっと理解不能。このラストはいろいろと誤魔化している感じする。てか、やれないなら、ラブホ行くなよなぁっっ。
 ただひとつ、冒頭のエミリーの心情吐露がいい。中学生くらいの、自分を表現する術をもたない少女の、お気に入りの服(すべて Emily temple cute 尽くし)を着て、お気に入りのブランドのショップのあるラフォーレ原宿の入り口の前でうずくまっている、ただ、それだけで、自分は自分となりそれだけで満たされるのだという告白。この、毎日ラフォーレ原宿の前に行くという、傍目にはおよそ無内容な反復でしかない行為が、しかし、彼女にとっての救済なのだ。このいじましさ、痛ましさ。これだけはストレートに真実で、この部分だけはさすがに心に刺さった。多分彼が少女に支持されているだろう部分ってのはここなんだろうな。
 あとは、まぁ、なんか、色々と頭でっかちで面倒な野ばらちゃんをぎゅと抱きしめてくれる「でもそんなお前、可愛いぜ」って云ってくれる素敵な旦那様が早く見つかればいいよね、という、そんな感じ。
 あ、そうそ。「コルセット」のひ弱でぼくちゃんでダメダメな青年の猛烈な死ぬ死ぬ詐欺っぷりは、はじけきれなかった頃の尾鮭=サーモン=あさみのよう(初期の「田園のSO・UTU」とか)で、そんなにきらいじゃないです。近くには寄らないけど。