榊原史保美「蛇神 ジュナ」

蛇神 ジュナ

蛇神 ジュナ

 猫コーナーに今月の猫様の画像が増えてるのは秘密だぜ。ってわけで今日の一冊は、これ。95年作品。YES、これもJUNEだっ。大学受験でバタバタしていた頃に出てて、買ったはいいもののすっかり読み損ねていたんだよなぁ。
 橘亮平、東都新聞の若き記者。ある大物政治家の一大スキャンダルを追いかけていた彼は、圧力により京都・山科の通信局勤務という閑職に追いやられていた。大手新聞の政治部記者という花形から一転、長閑だが虚ろな日々を送る彼の元に先輩記者の島村が訪れる。もし時間があるなら、失踪した義弟の消息を調べてくれないか――。 という、ふりだしではじまりますけれども、いっつもの榊原テイスト。
 京都の山奥深くにある、秘匿された人を食う蛇神「ジュナ」と、幻の信仰に支配される因習深い村人、その一帯を治める旧家同士の因縁が血腥い政治闘争へと広がり――、って、榊原作品で何度もこういう展開、見たっっ。んで最後は、夢幻的なシーンに派手な大道具の崩壊があって、主要キャラのひとりふたりが死んだりなんかして、色々とすべてが丸く収まって、主人公は真実の愛と魂の救済とかそういうのにたどり着いて、終わり。「龍神沼綺譚」はもちろん「鬼神の血脈」とか「魔性の封印」とか、彼女の長編の半分はこういうのだよな。隠れ里の旧家でなかったら、家元とか(笑)。
 榊原作品の楽しみ方ってのは、ミニマルミュージック的なんだと思う、同じモチーフを使いながら、仔細な――しかしそれまでと同じではない絶対的な変化が必ず作品にあって、その変化に、作者の心の成長が、自己受容への道程が垣間見えるのだ。
 今回の作品の一番のポイントは、榊原作品にはほぼ毎回登場する、主人公を悪魔的な想念や欲望へと誘惑する年上の男性(――「トーマの心臓」で云えばサイフリートね)のありようかな。
 その、サイフリート的ポジション、雑賀さんって人なんだけれども、もうなんというか、素敵やん、としかいいようのなくってっっ。超絶イケメンのすっげぇ悪漢、まるでメフィストフェレスのように、人の弱みにつけこみ、容易く陥れ、堕落させることを、眉ひとつ動かすことなくできる冷徹な悪魔キャラなのに、ただひとつ、主人公の橘亮平を愛してしまったばっかりに、物語が進むにつれどんどんきもくなっていく様は、悲惨過ぎて笑えてしまう。もうね、この本は雑賀伝説ってタイトル変えても何も問題ないですよ。
 祖父と父を「ジュナに食わ」れ、旧家の跡取りから一転、養父の性奴隷として過ごした少年時代の雑賀さん。ジュナ神を祀る関西実業界のドン・丹波家への復讐を完遂させ人生の勝利者となる、その為にどこまでも冷徹になり、全てを目的のための手段としてきた雑賀さん。いまや丹波家と敵対する関西の大物政治家の懐刀にまで成り上がった雑賀さん。なのに、いや、だから、なのかな、少年期に自分と似たような疵を作りながらもどこかのほほんとしてKYなおぼっちゃんの主人公・亮平に惚れて惚れて惚れぬいて人生を台無しにしてしまう。
 雑賀さん、作中「あいつは魔性だ」とかなんとか彼を糾弾してるんですが、もうね、どこがやねんっていう。あなたの盲愛はわかりましたから。
 でも、肝心の亮平は、貢って言うくそつまんねー病弱の美少年(――しかも雑賀さんのお手つき)に一目惚れして、君は僕の運命の人だとかなんとか上ずったりしてて、もぅ、雑賀さんの気持ちわかってやれよなっつーの。つか、お前の、どこまでもどこまでも雑賀さんを受け入れない姿勢がイラッと来るっつーの。
 そんなすれ違いの果て、雑賀さん最後に大爆発。拉致ってレイプして俺と一緒に死んでくれェェ展開へ。しかし雑賀さん、いざというところで都合よく利用する為だけに寝た男にあっさり刺されてしまう。
 「誰が他人なんかに渡すか。おまえはここで死んで、今度こそ俺だけのものになって生まれ変わってくるんだ」
 背中にナイフが突き刺さった瀕死の状態で、それでも亮平に襲いかかりながらの、これが雑賀さん最後の雄叫び。
 来世でもストーキングするか……。届かない愛って、激しくて、きもくて、だけども泣けるよね。
 元々、榊原作品において、サイフリート的キャラってのは、あんまりいい目を見ないのが通例なんだけれども、彼もまた不幸な人なんだなと、ここまで読み手を共感させたのはこの作品だけなんじゃないかな。その分主人公の感じ悪さってのはハンパないのですが。おっっまえ、もっと人の気持ちわかれよなっっ、勝手に貢とらぶらぶになってよがってんじゃねぇっ。少しは雑賀さんと召子ちゃん(――この人も亮平にほれてしまったばっかりにかわいそうなことになってしもうたよなぁ……)の気持ち、汲んでやれよっ。
 ともあれ、前半の、関西を牛耳る大物政治家の懐刀という表の顔とうらはらに、その政治家と肉体関係をもちながらもその息子・娘たちをたぶらかし、激しい肉欲と甘い囁きで彼らを誘惑し、周囲の全てをコントロールするスタイリッシュ・アンド・デモーニッシュ雑賀。後半の、やっぱり昔の恋人・亮平が大好きで忘れなれなくって、でもどうしようもできなくって、もう、わけわかんなくなっちゃう、きもいぃぃ悲しきストーカー・雑賀。このギャップだけでごはん何杯でもいけるよねっていうJUNEでした。
 話自体はいつもの榊原なので、お好きな人にはたまらないだろうけど、ダメな人はダメって感じ。宗教的、形而上的な魂の救済とか命の意味とかぐちゃぐちゃとした記述が多いのがちょっとうざったいかね。
 そのあたりは「風花の舞」「荊の冠」のほうが、同じく記述は多かったけれども、テーマと物語が一致しててすっと入ってきた。
 ただ、ジュナ祭の夜、神域に渡った「蛇子」が彼岸へと渡り、そして帰ってこなかったという一幕の、その風景は、幻想的で、なぜか泣きたくなるような清澄な美しさにみちている。
 「龍神沼綺譚」の最後、池の面に手を差し入れて夢見るように微笑みながら静かに絶命していた若い男と、その池のほとりまでてんてんと続いた、彼を愛した少年の、血の足跡。あのシーンをふと思い出した。
 榊原史保美は、あまり哲学的、宗教的で説明的にならずに、もっと直感的、映像的であってほしかったなぁ。「史保美」に改名して以降の末期の榊原は理屈っぽくって作品的にも袋小路であんまり好きになれないけれども、それでも不意に描かれるこうしたシーンは、やっぱりいいのだ。映像的でありながらどこか奥底の知れない妖しさと哀しみがあって、いまだに忘れられない。
 あと、次作「ペルソナ」は今作のスペックダウンバージョンなんだな。「ペルソナ」で描かれた土俗宗教の教義であるとか、舞台、旧家の政治的な対立構造などなどあまりにも同じ過ぎて――それでいて粗製で、物語も全然整理されていない。雑賀さんもいないから(笑)こっち読んだら「ペルソナ」は読む意味ないかも。