追悼・マイケルジャクソン

 彼のことを思う時、まず、みっつの映像が頭の中をよぎる。
 ひとつが、人類の領域を完全に超克した驚愕のダンス。もうひとつが、パフォーマンスの終わったその次の瞬間に彼の見せる、まるで生まれたての赤児か、あるいは天使のような無垢できらきらとした微笑。そして最後のひとつは、それを見守る恍惚とした観客たちである。
 舞台の上に今、確かに、奇跡がおこっている。美しき舞踏神がこの地上に舞い降り、わたしたちに微笑んでいるのだ。
 あるものは号泣し、あるものは狂喜に歓声をあげる。見るものすべてが、彼に陶酔せざるを得ない、彼を愛さざるを得ない、それほどまでに舞台の上の彼は圧倒的だった。
 そして、彼をして全ての人は、この美しくも繊細な舞踏の若き神の、無力な庇護者になってしまう。その微笑の瞬間のために彼を守ってやりたくなるのだ。
 彼がどのようなゴシップやトラブルに見舞われ、整形と奇矯な私生活を繰り返したとしても、「仕方がないな」「馬鹿だな」「面白い奴だな」と呆れたりすることはあれども、その根底にある愛は決してゆらぐことはなかった。子供のたわいのない悪戯を肩をすくめて許す親のように、全てのファンが彼を許した。
 彼が舞台の上で見せた奇跡で、すべての真実が垣間見えたあの瞬間で、全てがチャラになる。全ての世界が白く溶けて、そして再生される、あの一瞬、それを絆に、彼と世界中のファンは繋がっていた。
 しかしそれは、ある面においてカルトの教祖と信者の関係とほとんど同じといってもいい。
「舞台の上の彼を見ればわかる」
 あの瞬間を体感したものなら、そう云うだろう。だが、その瞬間を知らない者にとってその構図は恐ろしい異端のミサと映るに違いない。その時彼はファンの云う「大天使・ミカエル」ではなく「異形の怪物」である。
 全世界の人々の魂を魅了し、骨の髄までとろかせて堕落させ、食らいつくす、飽くなき欲望の魔性。白人になるために過激な整形を繰り返す、少年愛の、歪んだ、孤独な、スーパースター……、「デンジャラス」以降の20年弱、連綿と続いた彼の様々なスキャンダル・ゴシップは、彼が異邦の神としてサクリファイスされた、その歴史といっていいのかもしれない。


 はたして彼はわたしたちのために祝福の笛を吹く天使だったのか、それとも悲しき見世物小屋の怪物(フリークス)だったのか。実際どうだったのかは、わたしはどうでもいい。様々な噂の事実も知ろうとも思わないし、そもそも知りようがないだろう。
 ただひとつ云えることは、彼は、世界中の全ての人を愛そうとし、そしてそれ同等かそれ以上に、世界中のひとり残らず、全ての人から愛されようとしていた、地球上の全ての生きとし生ける者すべての愛を、抱擁の暖かい腕を、求めていたのだ、ということだ。
 そのあまりにも途方のない愛を何故彼は求めたのか、私のような凡人にはわからない。とはいえそのように生きた彼は、人間として生まれながら、人間になれずに「マイケル・ジャクソン」という名の天使、あるいは怪物として、自らの生を閉じた。
 彼の存在そのものが現代の奇跡だった。
 さようなら、そしておやすみ。
 次は人として生まれてこれたら、いいだろうね。