ずいぶん前にアップした文章を見ると本当、卒倒しそうになる。
 なんだ、これは。もうひどい、ひどすぎる。
 言葉がやたら棘々しかったり、偉そうだったり知ったかぶりだったりっていうのは、今でもそんなに変わりはしないかもしれないけれども、いや、今ならもっと、もっとなにか違う言い方をするはずっ。はずですよっ。こんななにも触るものすべてを傷つけるかのように殺伐と嫌な奴でなくても。頭でっかちで欲求不満の二十代の青年の生臭さみたいなものが文章から滲み出ている。
 ああ、いやだ。きもい、きもいよ俺。
 サイトをはじめたのが六年半前、その頃の私は自分の心の内側に色んな思念や言葉が渦巻いていて、けれどもそれを上手く文章で説明することができなくって、いつも白紙の原稿用紙やワードの前で呆然としているばかりだった。なにかひとつ書こうとしては上手くいかないと諦めるばかりで、しかもそれは十六歳くらいの頃からずっと続いていたことで、いい加減その繰り返しに飽き飽きしていた。
 こんなことやっていてもなんにもならない。下手でも理解されなくてもヘンテコでもなんでもいい。とにかく無理矢理にでも書いて、それを人目に晒すのだ。胸の奥にわだかまるなんだかわからない色々な感情や理屈をとにかく外へ排出する。そのためにわたしはこのサイトは立ち上げたのだ。
 それから様々な変節を経て、かつてにあったようなやむにもやまれぬリビドーと言うのは、今はさほど強くない。表面張力ぎりぎりだったそのわがたまりも今はほぼ一定の水位を保っている、と思う。
 上手く書きあらわせないだろう、誤解される怖れのあるだろう、そういったテーマのものはみだりにアップしないようにもなった。ま、時々、勢いづいて書いちゃうんだけどね。
 まあだから、最初期のテキストがきもいのは、仕方ないのだ。しょうもなさや気持ち悪さもある程度の覚悟を持って晒したものなのだから。
 と、かつての文章のに対してそのように受け止めようとしているのだけれども、なにかのニュースなどから、そのようなテキストにアクセスが集中したりすることが最近は富に多くなり(――先日も先日で倉田真由美のできちゃった再婚ではるか彼方に書いた彼女に関する下手なテキストにアクセス集中していたし)、そのたびに今の自分とかつて書いたテキストとの間の微妙なズレみたいなものがあってどうにもむずむずしてしまう。
 面倒なら削除しちゃえばって考えもあるのだろうけれども、それは確かに簡単だけれどもちょっと違うかなぁ、それを書いた時にわたしがそう思ったのは事実で、それ自体はなにも恥じ入ることはないのだから、などとぐるぐるしているわけだ。
 「せめて自分が愛着を持っている物事に関するテキストは、書き直したいなあ」
 そんなふうに思うようになっていた。
 と、去年の秋口から冬にかけて、サイト内の多くのテキストの再編集とリライトをして、今年の五月に中森明菜の本を同人誌で出したのは、そういう理由なのだ。
 六年前と比べたら少しは上手に表現できてるかなぁ、と。まあ人間なんて本質的なところはさして変わらないもので、もしかしたら多くの人には前とまったく同じに映るかもしれないけれどもね。まあまあ、かたつむりだよ人生は。