三十の齢を過ぎて幾ばくか経って、最近しみじみ思う。自分の感受性がどんどん鈍くなっているなって。
 色彩が、言葉が、音の響きが、雷撃のごときに我が小さき脳内におりてくる。
 小賢しい理屈の全てを撥ね退けて「わかってしまう」「見えてしまう」。世界を瞬間に、全的に、理解してしまう。
 大きな何かが、透明な矢のよう、まっすぐに全ての物事を突き刺して自らの心に届いてくるような、瞬間、があった。
 それはなにかの絵や音楽や物語や芝居に触れた時だけでなく、ふとした風の気配や陽の翳りを感じた時など些細な日常にも宿っていた。そのメッセージを言葉を超えた所で私は享受していた。
 それは本当にそうだったのかもしれなく、あるいは何か大きな勘違いだったのかもしれなく、もしくは誰しもがそういう時期が一時あるのかもしれないけれども、十代後半、特に二十歳になるかならない頃のわたしは、そんなめくるめく体感に、始終翻弄されていた。
 その、何者からか受け取った何かを自分でもうひとつの何かの形にするにはあまりにももどかしく、そしてそんな面倒な事をしなくても次々とその素晴らしい時は向こう側からやってきたので、わたしはただ、ぼんやりと阿呆の顔をして待っていさえすればよかった。
 そんな時期はもう、随分遠い話になってしまった。
 心が躍る。否応なしに体が反応する。言葉が自然と溢れ出てくる。そんな経験は久しくない。そして気がつくとつまらぬ小理屈ばかりが頭をしめている。
 もっと私は、翻弄されたいし、酩酊としていたいのに、素晴らしい音楽も素晴らしい物語も、なぜか私を冷静にさせてしまう。
 要は私はもうダメなのだ。つまらぬやつになってしまったのだ。
 結局、こんなサイトやらなんやらで、求められもしないのに愚にもつかない何かを表現しているというのは、その頃の感性が死につつあって、そしてそのことをどこかで自覚をしていて、それでいて、あの時のなにかを必死で再現しようとしてもがいているだけなのかなぁ、と、思う。
 まあ、とはいえ、自分を見捨てるわけにもいかないので、それなりにやっていくしかないんだけれどね。