萩尾望都「スフィンクス」

 新作。短編集「ここではないどこか」の第二巻。萩尾望都の作品にはじめて「老い」を感じた。
 タイトル作「スフィンクス」と「オイディプス」は、かの有名な「オイディプス王」の物語を萩尾流にアレンジした作品なわけだけれども、いきなりイオカステの自死オイディプスが自ら目を突き刺すというクライマックスシーンのみを描いた「オイディプス」、今度は冒頭の実父殺しとスフィンクス退治のシーンのみ焦点をあてた「スフィンクス」と、萩尾にしては珍しく「自分の萌えた部分を抜書きした」という印象。
 萩尾世界にとって最も重要である「親殺し」をテーマとした原初の物語としてこれが彼女に引っかかるのはわかるけれども、それを、読者へきちんとアプローチしているようにあまり感じられない。
 そもそもこのふたつは、右手が獣の形をしている黒衣の男の物語「メッセージ」シリーズで、今回もそれぞれ話の脇に彼は出ていて、まぁ、おそらく手塚の「火の鳥」のように、彼は人類の営みを傍観する不死の男なのだろうけれども、そんな彼の特徴の、異形の右手が「スフィンクス」ラストシーンなどで、書き忘れていたりする――萩尾にこういうミスは珍しい、のも気になった。それに、何でこのシリーズで「オイディプス王」をやりたかったのか、必然も作品から感じ取れなかった。
 もっと若い頃の、体力と精神力があり多くの時間が残されていた頃ならば掘り下げていただろう物語が、いまはこう、という、全体的にそんな感じがあるのだ。

 一方の「世界の終わりにたったひとりで」は、今回の傑作で、孤独に生き、孤独に死んだある老画家の物語。
 絵に全てを捧げた彼女の、しかしその生涯には、かなうことのなかった愛と何度かの諦めがあった。世界の果てにうち寄せる波、淡々と広がる寂寞の風景。全てのものどもがなにもない海に帰っていく。その汀で、彼女は幻の男と束の間のタンゴを踊る。主人公の大津ちづの顔は気のせいか、どこか作者・萩尾望都に似ている。「老い」を正面においた作品は彼女では初めてのことだ。
 最近の彼女の作品には短編の軽い作品が多い。萩尾望都の熱烈なファンとしては、まだ萎れて欲しくない、まだ大作が描けるはずだ、と信じているのだが、彼女は作家としての自らを老年期に入ったと、厳しく見ているのかもしれない。
 「青いドア」は家のリフォームに憑りつかれた強迫神経症気味の専業主婦の話。いるいる、こういう無駄に必死な主婦。
 「海の青」は思い込みの強いヒッキー気味文系少女が現実の彼氏を作るまでの話。
 ありがちな女のダメな部分をさらりと書いてミソジニーが漂わないのは、彼女の人徳のなせるわざだろう。他の女性作家ではこうはいかない。
 傑作ではない。が、ハイクオリティーな短編漫画集――だけれども、わたしは萩尾望都にぶん殴られたいし、薙ぎ倒されたいのだ。すげえぇぇぇ、って驚きたいのだ。
 まあ、ファンのわがままだけれども、いつまでも隠居しないでつっぱってて欲しいなあぁぁぁぁ。