イタクたっていいじゃない、面白ければ

時代が保守的になってきたのか、なんだかちょっと生きにくいなあ、なんて近頃よく思う。

ネットで、モノ書きやら役者やらの不道徳や非常識、あるいは珍妙な行動をあげつらったような発言をみかけることが多い。
まぁ、確かに聞くだに、それは身近にそいうい人いて欲しくないなぁ、とか、うわあ、それって人としてどうよ、というちょっと引いてしまう行動だったりするわけだが、その一方で、だがねぇ、と私はちょっとそんな批判に一言物申したくなる。

役者とかモノ書きなんてぇ――のは、やっぱり社会的な落伍者がなるものだとわたしは思うんですよ。言葉悪いけれども、昔でいうところの、河原乞食っていうか、さ。なんにもなれない半端モノの最後の最後の砦でなんかぐちゃぐちゃやっているよ、という。そういう社会的なヒエラルキーからはみ出たところにいるからこそ生のままの現実を手掴みできる、ああいう稼業ってのはそういうもんだと私は思うんですよね。

歌手なら歌が素晴らしければ、役者なら芝居が素晴らしければ、小説家なら小説が素晴らしければ、絵描きなら絵が素晴らしければ……。痛くてもいいじゃん。犯罪起こしてもいいじゃん。だらしがないセックスしてもいいじゃん。性格破綻してもいいじゃん。そうひそかに私は思っている――もちろんこれは自分がその人と作品だけのつきあいに過ぎないという前提なわけであるが。

なわけで、作家の柳美里が「孕んだ子を堕ろすときに、自分が生きてると実感する」といって10回以上堕胎しても、「30歳までには死にます、見ててください」と公言しても、小説という名で相手のプライバシーを侵害していることに気づかなくても、自身のサイトで恋人相手に「精通はいつ?」とか「はじめてのセックスは?」とか「オナニーはどれくらいのペースでしてる?」などと、公開セクハラしても、サイトの掲示板で訪問者のさりげない書きこみにいきなり「クソバカ」「サイテー」と罵っても、あまつさえ掲示板で自作自演したり、2ちゃんねるに降臨しても、全て全て小説が素晴らしかったら、問題ないのである。ないのである。……

とはいえ「じゃあ彼女はどんな文章を書くの?」というと、こんな文章を書いているわけで、なんともフォローが難しい。

http://www.shinchosha.co.jp/shincho/200309/yu_miri.html


うーーーん、あれだな。いつのまにか日本じゃセックスとバイオレンスでドラッグ決めてブギーナイト、ってやっときゃ「純文学」ってことになったみたいですな。
純文界における村上龍の功罪ってのは、おおきいなぁ……。

閑話休題
ともあれ、私は歌の下手で踊れないスタイルの悪い中森明菜はいらなし、歌の下手で曲の書けないCoccoもいらないし、文章の下手な栗本薫太宰治森茉莉も、やっぱりいらないなぁ。

なんつーのかな、美味いモノには美味いモノであるからこそのエグみっていうのがあるわけで、そりゃ、赤ちゃん言葉でしゃべる明菜サマとか見ると「うわっっ」と思うし、Coccoの腕に何本も走りまくっているためらい傷はなるべく見ないようにするし、中井英夫の「狩人の兄の方がタイプだな」なんて話にゲゲッと思うけれども、そのエグみの向こうに、本当に美味いモノが待っているからこそ、こちらとしてはそれを乗り越えようとするわけですよ。

それをなに履き違えたのか、「エグイ=美味い」と勘違いする人がなかにいるわけで、そんな時、ひたすらイタイ人を愉しむ酔狂はこちらとしてはないんだけれどもなぁ、とわたしは思わずつぶやかずにはいられない。確かにそういう「イタイ系」の作家なり歌手ってのは、自己投影する似たもの同士のファンが根っこで支えている、という事実はあるわけだけれども、うーーーん。そこんところ、どうよ、と。これはこれで非常に困ってしまう。

ま、結局、無茶してもメンヘルでも人間の屑でも何でもいいけれども、作品がオモシロなかったらそれまでだよね、というだけで、モノ作りは倫理観とかそういうことはどうでもいい、面白いか面白くないかで、作り手もそこんところをしっかと受けとめて欲しいし、受け手も余計なこというな、といいたい私なのであった。