前々から不思議だったんだけれども――。活発な同人サークルというのは、どうして二人組と言うのが多いかなぁ、と。
相変わらず、そのスジの人には当たり前の知識、そうでない人にはなんのこと、という話題なんだけれども、そうなのよ。もちろん1人のサークルもあるし、昔ながら大人数のサークルというのもあるだろうけれども、同人の発行ペースがはやい、あるいは長年同人活動を続けているというのは圧倒的に二人組のサークルというのが多いのよ。
これはなんでだろうなぁ、と思っていたんだけれども、TSUKASAさんとコラボするようになって、わかった。や、二人組ってのは、やばい。同じ趣味の人間が一緒になって同じことをやろうとする、これは危険です。あんね、二人組ってのは、まったく歯止めが効かないのよ。もう、周りをおいていって、どこまでもいってしまいますよ。本当に。

3人以上だと、極が色々うまれて、例えば対話にも、話している人、聞いている人、そしてそれを見ている人、という外部の視点が生まれる。何を話す何を作るにしても、その場に社会性というものが生まれると思うのですね。一方ひとりだと、相手がいないから、逆に仮想として不特定多数を想定して外に話すなり、物を作り出すわけで。ひとりに耐えきるとそれはそれで普遍性が出てくると思うのね。
そこで「二人」。この場合は、相手がいるから、お互いを対応させて進めることはできるんだけれども、そこから向こうにいる外部へと広がらないのね。まず場に他者の視点が生まれないし、とはいえ、相手がいるものだからひとりの時のように、相手の姿を想定するということもしないわけで、孤独を通り越した末の普遍性というのも出てこない。
なもんだから、こう、合わせ鏡のように、わたし→あなた→わたし→あなたの繰り返しで客観性を失い、ぐわーーーーっと周りをおいてけぼりにしてふたりして誰もついてこれない高いところへ登っていってしまうんですよ。しかも困ったことに当の二人はそれが結構面白かったりする、という。そして勝手に盛りあがっている二人ができあがる、という。

夫婦とか恋人同士の関係が複雑なのは、情愛が絡んでいるからというのもあるだろうけれども、基本ユニットが「二人」だからなのではないかなあ、とわたしはちょっと思ったりする。
誰にも理解できない形で勝手に二人だけで盛りあがったり、煮詰まったり、愛憎でぐちゃぐちゃになったり、というのは男女の誰でもそうだけれども、これは「人は二人になるとコミュニケーションがそれだけで自足し、客観性が排除される」という特性が生んだものなのではないか、と。

なぁーんて、相変わらず屁理屈こねているわたしなんですが、えーーとつまりは、だ。
またTSUKASAさんと対談しちゃいました。しかも今までの対談で1番長いテキストになっちゃいました。2日に分けて計10時間近く話しちゃいました。しかも二人してこの作業がそんなにつらくなかったです。一体どういうことなんでしょうか。もう信じられません。なんか二人で、とてつもない山脈の踏破を目指しているような気がして心配でなりません。このまますすんでいいのか。って愉しいからどんどんすすんじゃうんだけれどもね―――。
とはいえ見ている方も一緒に踏破してください。いや、マジで。二人を置いてかないでっっ。