がんばっていきまっしょい」から引き続いて松山の話。

ドラマを見ていて「俳優陣みんな伊予弁下手だなぁ」と思ったのは昨日も書いたと思うが、やはり大阪が舞台の芝居を見る大阪人は、博多が舞台の芝居を見る福岡人は、みな、やっぱりそう思うのかなぁ。
確かに、そのように方言に対して厳しい視点で見る郷土愛の強い方もいるだろうが、それにもましてあのドラマの伊予弁は変だった。わずか松山在住五年弱で在住中自らが伊予弁で話すことを一切拒否していたわたしが「こりゃ、ひどい」と思うほどなっていなかった。

生粋の松山人の友近と、徳島出身の大杉漣は良かったものの、あとはもう全滅という感じで、よくある非関西人の話すベタな関西弁とか、非東北人のベタな東北弁とか、そういう地点にもいっておらず、ただ「どこのお国の言葉?」という居住まいの悪さだけがあった。これは、つまり「パブリックイメージとしての「伊予弁」というのが世間にない」というのが、どうも原因なんじゃないかなぁ。


伊予を含む中四国地方ってのは、「関西弁」「東北弁」「九州弁」のような大きな地域で区切った枠組みとなる方言ってのがないんだよね。まあ、基本的に瀬戸内海地方ってのは関西と九州をつなぐ海の回廊であったわけだから、基本関西っぽくあり、そこに九州テイストを織り交ぜ、というところなんだけれどもなかには広島弁とか土佐弁とか、もう突然変異ともいうべき強烈な個性をもった方言なんかもあったりして、非常にわかりにくい。そのなかで伊予弁ってのは地理的にもそうだけれども、ちょうど雄雄しく荒々しい広島弁と土佐弁にはさまれていて、そのせいか、地味で特徴のつかみづらいうすーーい方言なんですよ。

とはいえ、関西っぽくあればなんとか、というと全然違うわけで、伊予は関西と比べるとやっぱり断然田舎で長閑なせいか、関西弁のように言葉が霰のように頬にぱらぱら当たるようなあのテンポ感ってのは、絶対無いわけ。そんな関西弁のなかで、もっとも伊予弁に一番近いなぁと思うのが京都弁だとわたしは思う。妙におっとりで、言葉に間があるのですよ、伊予弁は。かといって、伊予弁は京都弁のように雅びていて、間で人の心の機微を読むようなところはまったくない。伊予弁の間はあっけらかんとした、ぼーーーっとしただけという単純な間なのね。そこに広島弁風な荒っぽさがスパイスのようにからんで、言葉に野卑た印象を与え、という。つまり田舎っぽい素朴で暢気な京都弁が伊予弁だ、と私はおもったりしている。

なんというか、伊予弁は春の海でひねもすのたりのたりって感じなのですよ。音でいうと「ハ」行で、でもってなんかこう無駄に言葉をのばす。ぽかんと口を開けたようなちょっと間抜けな、じいちゃんばぁちゃんみたいなしゃべり方。そこにゆったりとした時間がうまれ、あーー眠い、という。 ……女性コメディアンなのに妙にゆったりして抑揚があまり激しくない、はんなりとしているがさほど上品ではない友近のあのテンポ――あれは、伊予弁のテンポだとわたしは思うなぁ。

やはり、伊予の気候的特長もあってこの暢気節な方言が生まれたんじゃないかなぁとわたしは思う。冬は中国山地のガードで雪が降ることもなく、夏は瀬戸内特有の気候で、日差しは強いものの空気が乾いていて爽やかな暑さ、秋の台風も、四国山地九州山地中国山地のガードでおよそ直撃がない。ただ困るのが、日本にあって珍しく万年水不足くらい――ってこんな気候で暢気にならないほうがおかしいというか、そう思うよ。ホント。ぽかんと口開けてだらしがなくしゃべっても、なにも支障がない、という。

さらにこうした気候条件は、伊予で俳句文化が醸成されるにいたった主要因の一つではと勝手にわたしは思い込んだりしている。じぃっと、何も考えずにモノをひたすら見たり、黙々と本を読んだりするのに、伊予の風土と伊予弁ってほんとあっているんだよね。そのせいか、伊予の人というのは、世に出て大きく羽ばたくいて世界を変えるというセンセーショナルな人とか、耐えに耐え忍びに忍んでお国を守る、というような日本人好みの偉人とか、あまり生まれないけれども、まぁ、のほほんとぼんやりしていて気楽で、日々晴耕雨読という感じで、自分にあっているな、などと思ってしまう。

って今回は珍しくもお国自慢している私なのでした。