亡霊のような言葉というのがあると、近頃よく思う。

それは例えば、雑誌や広告を彩るコマーシャルな言葉――― なめらかであたりさわりなく、そのくせどこかきいたことのある、退屈な、あってもなくても何も変わりはしないような、言葉。虚を飾ざるような言葉。そんな言葉たちはどこか実体がなく、亡霊めいて私には見える。その言葉は向こう岸にいる私たちへ向けられた言葉でなく、どこかにいる誰かの自意識を補填するためにある言葉なのであろう。だからその言葉が、重ねられれば重ねられるほど、私たちは疎外される。

それは例えば、ネットで取り交わされる匿名の言葉―― あるいは正論であったり極論であったり、もしくは密度が濃くあったり無内容であったり、そういった言葉。それも、どこか亡霊めいて私には見える。言葉自体に確かな意味があろうと、何故だろう、空気のような、風のような、一瞬で霧散してしまう印象がある。雑踏のなかで不意に耳に入った言葉のように、はっと思い振り向いてももうそこには誰もいない。そんな感じがある。

言葉というのは、単純に「わたし」と「あなた」がいて、はじめて「生きる」ものだと思う。『私はこうこう思っている。それをあなたに届けたい』それが言葉というコミュニケーションのはじめであり、終わりだ、と。だから、「わたし」の在所がない、あるいは「あなた」を想定していない文章というのは、亡霊のようになる――と、私は思っている。

そんな亡霊の言葉にならないために、と、わたしはこうして今日も何らかの文章を綴っているのだが、果たして、それは誰かの心にしっかりと届いているのだろうか、皮肉でも、焦燥でも、ため息でも、追憶でも、嫉妬でも、思慕でも、なんでもいい、この言葉に身体は宿っているか、そうと思うと、なんとも心もとない気分になる。私の言葉も、誰かにとっての亡霊に過ぎないのだろうか、と思う時もままある。