これは、自戒をこめて、という意味もあるが……。
この世にある様々な正論―― それは確かに正しいことなのであるが、しかし、その正しさに息苦しさを感じずにはいられない。そんなことをよく思うことがある。それは正論だけれども、自由じゃないな、と。
そういった「正しい言葉」は、ある面では確かに正しいのだが、たいていが空論というのか、実情を把握していない、ある面では「正しくない言葉」であったりするものが多い。

ネット上にある「正論」というのは、そういうものが多いな、と私は思う。
blogやら、2ちゃんねるやら、チャットやら、様々なところで交わされるどこか熱病めいた「正論」。それらは、確かに正しいわけなのだけれども、正しさの影になにか大切なものごとを忘れているような……、と、思わず振り返ってしまいたくなるものが多い。その正論は、わたしたちを幸福にするものなの?その正論は、わたしたちを自由にするものなの? ――と。

そういった息苦しい「正しさ」を腑分けしてみると、「正しさ」の鎧の向こうに書き手自身の、およそ本来のテーマとは関係のないルサンチマンが仄見える、なんてことが多くてこれまた困ってしまうわけだが。なんだよ、私怨に理屈をコーティングした感情論かよ、と。

「正しさ」は、いろいろなものを隠してしまう「めくらまし」の役割があると思う。
欲望や衝動、悪意など、人が理性で押さえ込まなくてはならないもの、それらは「正しさ」の免罪符をいただいたとたんに内から外へと溢れ出していく。「正しさ」の鎧をまとって人は人を殺し、人は人を陥れる。戦争は「正しさ」の麻薬的効用をもっとも有効に活用したものといえるかもしれない。

「正しい」ものであればあるほど、私たちは慎重に扱わなくてはならないと思う。「正しい」からこそ、疑わくてはならない。絶対的に「正しい」というものはこの世に何一つとしてないのだから、どの段階でどの状況でどの範囲で、という限定的な「正しさ」しかこの世にないわけだから、特に中間領域を捨象したような、原理原則的な、ある意味暴力的ともいえる「正しさ」には、気をつけて扱わなくてはならない。