ちょっとばかり昔、親しくしてもらった仕事場の先輩に、30半ばの、昔バンドをやっていたという、そういう人がいて、わたしが彼に、くだらない話のつれづれに"このアーティストは、こうこうだから、このジャンルは、この志向が"などと難癖つけて、あれはイヤ、これはイヤだといっていたのを、彼は、
「ま、でもね。不思議なもので、年食ってくると、どんなものでも、どんなジャンルでも、それなりに楽しめるようになってくるものだよ。それこそ、今は、こんなもの、と鼻からひっかけないようなものでもね」
と返した。
そのときは、そんなものなのかね、と思ったわたしだけれども、今ではその言葉が、わりと実感に近いものとしてわたしのなかにあることに驚く。
その昔、1度聞いたことある、そのときのわたしはけっして足をとめなかった歌が、なぜか、今ふたたび聞くと、慕わしく、好ましく感じられたり、そんなことが近頃なんだかとても多くなって困ってしまう。

感受性というのは、読んで字のごとく、心の「感じて受ける」部分であるわけだから、精神的に成長し、心の器が大きくなればなるほど、受け止められるレンジが広くなって、昔はつまらないと思っていたものが、その面白みがわかったり、と、そうやって、よりいろんなものが楽しめるのかもしれない。

そんな、いつかはすべてを、なんでもかんでも楽しんでしまうぞ、という、つまりは感受性が面的で拡大方向に動いているわたしのよう人間にとって、まったく理解できないのが、
「昔は、あんなに好きだったのに、今聞くと(乃至、見ると、演ると、遊ぶと)全然面白くない、退屈」
という意見であって、こういうことをいう人の感受性というのは、いうなれば、線的、垂直的で、収束方向というか、そういうものなのかもしれない。過去の自分が是としたものを踏み台にすることと、自身の精神的成長がパラレルに起こっている、というか、そんな感じがする。

過去の自分の是としてものをあえて否定することで、だからこんなにもわたしは成長したんだ、と自らと周囲に主張しているという、そういうたくらみをわたしは感じてしまう。
わたしのような側の人間からしてみれば、なんで別の楽しみを手にする代わりに、その昔は手にしていた楽しみを捨てなきゃならないの、どっちも楽しめばいいじゃない、と思ってしまうのですが、そういう側の人たちにとっては、どうもそうもいかないようで、そういう側の人たちは、なんだかいろんなものを「卒業」しながら生きていくようです。大変ですね、そういう側の人たちは。