作品を語る、ということ

 小説でも歌曲でも絵画でも、なんでもいい。そこにひとつの作品がある。その作品についてなにかを語る時、わたしにとって一番重要なのは、共感することだと思っている。
 もちろん、技術的な批評、あるいは客観的なデータといったものも、作品を語るに必要なものだろう。そういったものを専門に評論する人はそれでいいとも思うし、その道をつきすすめばいい、と思う。
 とはいえ、わたしにとって、それはさほど重要なことではない。作品を知る手がかりではあるが、それがそれ自体でなにか重要でものであって、そこに核心的ななにかがひそんでいるとは、思わない。

 わたしにとって、作品を解するというのは、作者を知ることだと思っている。
 知るというのは、なにも彼のプロフィールを知るという意味ではない。どこどこの出身で、親の職業はなになにで、賞罰は以下のように、などなど、そんなことはどうでもいい。 ひとつの作品向こうにある、ひとりの作者――彼が、なにを思い、なにを見て、なにを感じていたか、そのこころに、触手をしのばせることが私にとって「作品を知る」ということである。

 もちろん、人の心の複雑で、たやすく読み取れるものではない。わたしの平板な人間観が、作者と作品を矮小化してとらえてしまうこともあるだろう。
 それに、たとえそのこころがわかったからといって、作品はそれとは関係なく独立してあるべきである。つまらぬ想念で作品そのものを捉えたとのぼせあがるのは、作品への冒涜といってもいいだろう。
 作品は作品である。それ以上でもそれ以下でもない。
 例えどのような事情が孕んでいたにせよ、またどのようなクオリティーであっても(――それこそ私の書いているような低レベルの雑文であっても)、作品の絶対性は、不可侵のものである。作者すらもその聖域に迂闊に入ることは許されるものではない、と思う。

 ――が、だ。ひとつの作品というひとつの「彼岸」を、ただのひたすら望み見るだけで、わたしたちは満足することができない。
 だから、いろいろな手段をもって、人はその彼岸へ橋をかける。さまざまな批評体系は、その手段を、ひとつの学問・思想までたかめられたものといっていいだろう。
 そのなかにあって、わたしは、作品に共感すること、作者の見ている夢をともに幻視しようとすることこそが、もっとも真摯に、そしてまっすぐにその彼岸への階となりうるだろう、と思い込んでいる。それだけの話だ。

 だから、わたしの作品について言説というのは、たとえ説得力のある資料を引用し、これこそが真実である、といったような言い回しをしようとも、本質的にきわめて個人的なものである。ただの思い込みにすぎない、といわれればそうだろうものだと思っている。

 しかし、まぁ、それでいいじゃないか。
どこまでいっても、深い森のなかで、正体がはっきりとしないのをうろうろと迷いつづけるが、知的冒険(――妄想?)の面白さであって、これこそがゆるぎない真実であり、唯一で絶対なる答えである、なんてものが石くれのように道端に転がっているようじゃ、こちらが興ざめだ。宝物は、ダンジョンの最奥に眠っているからこそ宝物なのだ。
 だから――。一生かかっても最奥にだどりつけないダンジョンで、わたしはずっと迷いつづけていたいと、そう思っている。