三島由紀夫の、彼が秘匿していた10代の頃の作品や、変名による作品が発見され、全集に補巻というかたちで収録されることになった、という話は前回したと思うが(――って、そこまで詳細に書いてないか。そうなんですよ、奥さん。)、没後の文学者の全集というのはだれかれ関係なくすごいもので、おそらく作者にとしては、世に出すつもりなどさらさらなかったであろう日記やら書簡などまで麗しい装丁で世に出されてしまうのだから、なんというか、呆れるやら驚くやら、純文学の編集者や研究者・評論家というのはストーカーなのかね。
 森茉莉なんて、新聞のテレビ欄に残した書きこみ――朝から深夜まで、今日はなんのテレビを見るか、ぎっしり赤鉛筆で書き込まれていた、までさらされていたものね。

 とはいっても、わたしも、 「萩尾望都がひっそりと自分が楽しむ用に描きとめていたのどえらいやおい漫画がじつはあったんだけれども」 とか、 「『海のアリア』のやおいバージョン見つかったよ」 とか、 「萩尾望都甲斐よしひろ総受けのナマモノやおい漫画がみつかったよ」 とか、 「萩尾望都の落書き用のクロッキーブックにこんなひわい絵がっっ……」 とか、 萩尾先生の没後に色々と発見されたとしたら、もう、飛びつきます。
 わたしは別に、研究者でもなんでもない、ただの知りたがりの品のないいちファンですから、とかいって、意地でも目を通します。ストーカーでいいもんっ。
 そして、
「あんな高雅な作品を創作していても、モー様だってやっぱり人の子、やおいの子なのね」
 と、よりいっそう、親しみを感じますね。
 ま、それ以前に、萩尾望都がそんなものを描いているかどうかは定かでないし、そもそも亡くなられちゃ困るのっっ。 100歳なっても、漫画描いてくれなきゃ困るのっっ。ずっと、追いつづけていたいのっっ。

 ――っていう、ファンのたわごとはまぁ、いいとして、だ。
 やっぱり、熱狂的なファンって云うのは、ジャンルを問わず、ストーカーに行きつくのかね。

 気に入った作家には「あんたの描(書)いたもの、ひとまず全部みせなさいよ」という気分に、まあ、私はすぐなりますね。
 「これは人に見せるものでないから、とかいって隠さないでさ、クオリティーとかそういうことは全部いいから、ひとまず、見せてごらん」と。
 「そこになにがあっても受け入れる用意はとっくにできているからさ」と。
 同人誌の、フリートークの、どうでもいいような、こちゃこちゃしたコメントとか、あきらかにページ埋め合わせ的にひっぱってきたデッサンとか、そういうのも、楽しむクチですから、私は。

 それが昂じて作者の私生活に踏み込んだり、「私の望む○○先生以外許さない」なんてなったり、いわゆる「ミザリー」状態にいっちゃまずいでしょうが、でも、まぁ、そこまでファンを狂気の領域に引きずり込むなんて、作家冥利に尽きるともいえるわけで――、ってそうでもないか。
 自分が有名作家の立場になったなら、高校生の頃に書いた中島みゆきバリの被害妄想な詩とか、いのまたむつみそっくりに描いたイラストとか、星矢のアニパロやおい小説とか、書きさしの原稿に何とはなしに書いたへぼい落書きとか、CDの編集をどうしようか、曲目をずらりと並べたのだとか、「イアンにご飯つくったげたい」とか「ちはや、清純なのにエロかわいいよっっ」とかほざきまくっているこのサイトなどがさらされるわけで、プラス、変な手紙が届けられたり、家の前でファンが待ち伏せたり、よしんばわけのわからないことを口走られたりとかするわけで、耐えられない。絶対無理。屈辱的。恥ずかしさで死ねるなら、その時俺は死んでいる。って、これ、没後の話か。

 あーー、自分が有名でなくって良かった。
 だからこうして、適当なことを口走ってウェブ上に残しても、誰からもスルーされて、誰の心にも残らないのだ。
 これで俺が大作家なら、大変だよ? もう、毎日がいやな意味でフェスティバルですよ? ――と、わけのわからない現実肯定、というか負け惜しみで今日は話をしめる。