私が小学生の頃すんでいた町内には、育児院があった。
 育児院、つまりは孤児院だ。
 その育児院から通っている児童は、各クラスに、一人乃至二人という感じで散らばって組み込まれていた。なぜなら彼らは、大抵、クラスメートからいじめられるか、無視されていたからだ。
 冬になるといつも青洟をたらしていた子、いつまでたっても膝の傷が赤黒く汚いままで治らない子、などなど。彼らはいつも、着古した汚らしい服を着ていたし、髪も顔も手入れのしっかり届いていない臭そうな感じだった。
 子供は、そうした「チガウモノ」に対して大人よりも、残酷である。賢いものは冷ややかに遠ざけ、そうでないものはこれみよがしにからかう。

 わたしは、というと、一見親しそうなそぶりで近づくものの決してほんとうに心を開かない偽善者であった。
 グループが一緒になったりなど「いっしょに行動しなくてはならない」時などは、友達のような気安さで積極的に話しかけるものの、ある一線以上を踏み越え、ほんとうの友達になることはなかった。わたしは彼らをからかうものとほぼ同等に、彼らを遠ざけていた。
 彼らが心を開き、育児院の生活の一端を話すのを――入浴がある日は、年少の子の面倒を先に見てからだからめんどうくさい、小さい子はいうこと聞かなくて困る、とぼやいたり、今度の日曜は一年になん回のかあさんにあえる日なんだと、喜ぶのを、わたしは親しいそぶりで聞いていたが、それらの話はわたしにとってどこか気持ちのよくないものであった。
 地域の自治会の子供向けの催しは、その育児院の広場でよく行われていたが、わたしはその育児院の門を潜るのが、どこか厭だった。なるべく関わり合いになりたくない、ここにいると暗い気持ちになる、と、その頃の私は思っていた。

 そんな記憶からしばらく後、大人になった私は、その育児院で職員による恒常的な虐待が行われていた、という報道を聞いた。その報道と、わたしのなかにあった暗い感情が、その時、結びついた。
 私は、彼らをそのものを嫌悪していたのではなく、彼らの持っていた拭いようもないアトモスフィア――彼らを取り巻く状況、彼らの不幸と、その不幸が彼らを彼らたらしめてしまう、そのことに嫌悪し、それを直視するのが苦痛であったのかもしれない。それは彼らの責任によるところはまったくないものである。

 その頃親しいそぶりをしてつきあった彼らがどう成長したか、私はそれを知らない。中学になるとわたしは都内の私立学校に通うようになって、そこで彼らとは離れ離れになった。
 「父さんが『中学生になったら、一緒に暮らそう』っていっていてから、ここはそれまで」
 そういっていた子が、小学校のとなりにある中学校の制服を着て、通学していた。その姿を一度だけ偶然見たことがあった。それだけである。