なんとなく心が薄暗い。
 特に懸念するものごとが心を占めているわけでもない。ただ漫然とした、あまり居心地のよくない感情が、梅雨の垂れ込める雨雲のように、心を覆っている。
 なにごとにも集中できない。
 さまざまな出来事は日々おこっているが、そのほとんどはモニターの向こうのどこかの誰かの出来事。自分には関わりのないもので、とりたててなにかをいう気にもならない。
 せめてこの感情になにか言葉を与え、明確にできるのならば、と思うのだが、こういう時に限って、あまり意味のある言葉は綴れないものだ。

 毎日更新しているブログはすごいな、と、改めて思う。
 私のような、心がうつろいやすい人に限らず、なにもいうことのない1日、なにもいうことの出来ない1日、というのが、誰にだって年に何日かはあるものだと思う。
 そういう状況をおして更新しているのか、はたまた、内面的にも社会的にも、まったくもって平穏で安定した生活をおくっているのか。

 「見知らぬ何百人もの人たちに文章が読まれるのって、なんか不思議じゃない?」
 と、ある日、友人に言われた。このサイトのことだ。
 確かにアクセス数などを見るとそれは事実そのものなのだが、その事実にさしたる実感はない。このモニターの向こうに何百人のあるいはそれ以上の人々が、それぞれの感情をもって、これらわたしの文章を読んでいる、それはなにかの冗談のように思えて仕方ない。
 またまた、そんな嘘をついて俺を騙したって、なにもでやしないよ。

 わたしはいつもひとりよがりで、時にぼんやりと、時に熱くなりながら、モニターに向かっている、ただそれだけだ。
 そして、時折、冥界からの使者のように、あるいは、なにかの巧妙な罠のように、見知らぬ誰かから、メールが届く。
 私にとってのサイト運営というのは、つまりはそういうものだ。
 つかみ所のないふわふわと曖昧な世界――。

 さりとて、実生活は、手ごたえのしっかりとある、本質的で、濃密な世界なのか、というと、少なくとも私にとってはまったくそうではない。何事もおこらず何事もおこさず、ただ砂時計の砂が少しずつ目減りするように自分が目減りしている(――ように感じる)だけで、生温い絶望と希望が、穏やかにまざりあっている、うんざりした世界、としか思えない。
 だからといって、実生活で良くも悪くも「無理にはじける」つもりも毛頭ない。その一瞬のためのリスクを背負う蛮勇も、またなにかに対する恨みもない。 つまるところ、なにごとにおいても中途半端な奴――それが私なのだな、としみじみ思う。

 どんな場所にいてもどこか場違いのような感情にさいなまれ、なにをしても確かさを感じることが出来ず、ただ自分のなかにある「ズレ」を意識しながら、しかし、どうすることもできず、ただ生きるために生きている――。

 「ま、でも、それもいいんじゃないかな。それが私の妙味ということで」

 繰り言をひねくりまわすと、不思議と最後は、よくわからないポジティビティーが身のうちから湧き上がってくるから面白い。最終的な局面で、どうにも自分を投げ出せない。明日も仕事早いしね。と、現実に戻ってきてしまう

と、いうことで、今日の日記は、繰り言オンリー、うざくてごめんね。