和田義彦氏の盗作疑惑

 今更感たっぷりだけれども、和田義彦氏の盗作疑惑の話を……。

 ワイドショーやネットなどで、オリジナルのアルベルト・スギ氏の作品と和田義彦氏の盗作の作品を並べ検証しているところが多くあった。

 http://plaza.rakuten.co.jp/maou2006/10000

 それを見るに、彼の盗作は、火を見るより明らかである。構図、色使いなど、どのようなフォローも無意味と思えるほどまでに、見事な盗作だ。
 が。
 あらゆる先入観を排除して、和田氏の盗作作品を観賞する。
 ――結構好きだな、この絵。

 アルベルト・スギ氏のオリジナルと和田氏の盗作、予備情報まったくなしで、どちらの絵のほうが好みか、といわれたら、わたしは和田氏の盗作の方を、選ぶだろう。筆遣いや、色調など、些細な点なのだが、和田氏の作品のほうが、わたしの感性にしっくりくるのだ。
 なぜ、といわれても、こたえようがない。そう思ってしまうんだから仕方ない。これが、美術・音楽・文学などなどあらゆる「表現」の、面倒くさいところだ。

 盗作は、アリジナルアーティストへの礼を欠いた、表現者として恥ずべき行為、である。おのれが表現する側に立ったとき、もっとも細心の注意をはらわねばならない部分、だとも思う。
 が、一転、観賞する側として、純粋に作品に対峙したとき、そういった細かい事情というのは、どうでもいいものでも、また、あるのだ。

 作品とわたしがそこにある――その作品がわたしの心を響いたか、あるいは、響かなかったか。作品の観賞は、ただ一点、それのみの勝負であって、後の部分はすべて、ザップだ。作者の品性が下劣だろうと、作品自体が盗作だろうと、どうだってかまわない。知ったことではない。そんな世俗のルールは観賞に必要ない。そのとき、わたしの感性は、アルベルト・スギ氏ではなく、和田氏の作品を選ぶのである。わたしにとっての勝者は、和田氏なのだ。

 こんなわたしの感性を、「審美眼がない」といわれても、わたしはわたしの感性を曲げられない。
 この面倒くささがわからずに、うだうだしたり顔で語る田舎漢が多いのに、わたしはうんざりする。

 選者が、和田義彦氏の作品がほんとうにすばらしい、アルベルト・スギ氏のオリジナルよりすばらしいと思ったのであれば、賞を剥奪する必要などない。綿貫民輔の肖像も、飾りつづければいい。
 作家だって、パクりたいなら、パクればいい。
 ただ一点、出来あがった作品がすばらしければ、それで、いいのだ。
 筒美京平も、浜崎あゆみも、倉木麻衣も、作品が素晴らしいかぎりにおいては、わたしは認める。

 とはいえ、盗作騒動の和田氏の対応は、「みっともない」のひとことにつきるし、彼へ加えられた制裁は当然のものと、また思う。擁護するつもりはさらさらない。
 是非とも、これから盗作する方は、覚悟と矜持をもって、盗作にのぞんでいただきたい。そして発覚した時は、右往左往せず、堂々と、自らのまいた種ときちんと刈り取っていただきたい。と思う、そんな私なのであった。