近頃、親子の葛藤をめぐるさまざまな事件が起こっている。
 わたしは、マスコミから流されるそれらさまざまな情報に耳をふさぎながら、しかし、時折、ふさいだ耳をすましてみて、聞きいる。
 報道が流す事実といわれるもの、それがどれだけ真実であるというのだろう。わたしたちは、当事者でない限りにおいて、決して真実を知ることは出来ない。
 そう思いながら、ひとつの不幸にある、なにか、を感じ取ろうとする。

 親子の間で起こる悲劇。
 そこに、ただひとつだけ、確かなことがある。
 それでも親は子を愛し、子は親を愛している――ということだ。
 現実が見えなくなるほど、すべてが憎しみに変わるほど、愛している、ということだ。
 彼らの愛しあうその方法は、結果を見るに、間違っていたのだろう。
 彼らは、「愛しあう」ということに対する見識が、浅かったのだ。
 しかし、それが正しかろうと、そうでなかろうと、子は親を親は子を愛してしまう。
 理由は、ない。
 そして、それは永遠に捨て去ることが出来ない。

 だから、わたしは、その愛が怖い。
 母親が、自らの血肉を分け与えるように、乳飲み児を育てる姿――それを美しい、崇高だと思う反面、わたしはぞっとするものを感じずには、いられない。
 愛は、残酷な神が支配する世界だ。
 情け容赦のない、圧倒的な支配の世界だ。
 その愛が、甘やかだろうと、陰惨だろうと、崇高だろうと、その構図自体残酷である、それは変わらない。
 親と子は、永遠にもろともの囚人だ。見えない鎖でつながれて、それが外れることはない。

 わたしは、愛から自由になりたい。どこまでもひとりで歩きたい。そう思って、いつも逃げている。
 しかし、時折、ふと、ふりかえり、あの息苦しい世界を、なつかしく思う。

I goin' back to New Orieans To wear that ball and chain
(俺はニューオーリンズに帰るのさ あの鉄球と鎖をはめるためにね)

      (Animals「朝日のあたる家」)

 
 古い歌の一節を、思い出しながら。