わたしが更新を怠っていた一週間の間に、三年前に書いた宇多田ヒカルのテキストにアクセスが集中していた。どこかで晒されたのだろうか。調べると、そのテキストだけで1000以上のユニーク数を稼いでいる日もあった。
 三年前のテキストとなると、およそなにを書いていたか判然としない。読み返しても、「へぇ、こんなこといっていたんだ」と、まるで他人のテキストを読むような印象に近い。
 しかしそれが、改めて注目を浴びる。もちろんこれまでもそういったことが何度かあったが、不思議なものだなぁ、と、やはり思う。

 とうの昔に書いたきり、すっかり忘れていたテキスト――その感想が私の元に届いたり、あるいは、どこかでその評判を聞いたりする。それが縁となって、知り合った人も何人かいる。別の場でテキストを書かせてもらうこともあった。
 ある作曲家のブログで「このアルバムを録音した時の思いが伝わっていた」と私のテキストを紹介されたこともあった。まるで「あの時のテキストを読んでくれたのか」と思うような作品を見ることも、二、三度あった( ――和田加奈子「ゴールデン☆ベスト」には驚いた。私のテキストを読んで、ふと和田加奈子のことを思い出してリリースしてくれたなら、ありがとう。そうでなくっても、ありがとう。東芝EMI、今夜は君を離さないぞっ )。

 わたしが何らかの影響をどこかに与えている、とか、あるいはそうでない、とか、そういったことは、どうでもいい。
 ただ、わたしのなかにある想いとの時差、みたいなものが、とても不思議な感じがするのだ。
書いている時――そのとき、その文章は、私にとっての真実であり、わたしそのものなのだが、それが過ぎ去って後、その文章は私であって、わたしではない。
だから、もうそれは過去のこと――といったら、正確ではないが、なんというか、そこでとりあげられているテキストは、まさしく自分のテキストだ、と、どうにも思えないのだ――といったら、責任回避っぽいかな。

 何かを作り出す、生み出す作業というのは、「自己を外化する」作業だ。
 この世にある人間の創造物は、すべてちっぽけな脳のなかにある論理やら妄想やらを外化したものに過ぎない。いいかえれば、文明とは、人間の脳の中にある楽園の再現に過ぎない。
 しかし外化した瞬間に、その鮮やかな黄金色に輝く「なにか」は静かに色褪せてゆく。私たちの文明が決して楽園でないように、私たちの作り出したものは、いつも不完全で、なにか足りない。手のひらを離れた瞬間「これこそ、まさしくわたしだ」と、いえないものになってしまう。

 ――などと、大きく話をもっていこうという気はさらさらないのにあいかわらず風呂敷を広げる私は、今日も不完全に自分を外化するのであった。オチはないぞ。