いまさら、坂東眞砂子

 一部の(――あくまで一部の)愛猫家の、ファナティックな、まさしく「猫かわいがり」としかいいようのないそれが、不快だと思う時が、しばしばある。
 猫自体可愛いのはたしかだ。猫でなくてもいい、犬でも鳥でも魚でも、なんでもいい。小動物になつかれて、うれしくない人なんて、この世にいるだろうか、と思う。
 とはいえ、彼らに共通して漂う、ペットを通して自己を慰撫している雰囲気、ペットの猫と飼い主の自分とを同一視しているような感じが、暑っ苦しいのだ。
 わたしもまた、愛を欲しがるさみしい人間であるから、彼らの感情の一部はわかる(――つもりだ)。
 わかっているから、わたしはペットを飼わない。飼えば私は過度にペットにもたれてしまう。
 だから、「たかが猫だろ、もっと距離置けよ。その愛しかたはどう考えても自己愛のバリエーションだし、鬱陶しいよ」と、わたしは見たくない自分を見るように不快に思ってしまうのだ。

 残酷な仔猫殺しを日常的に行っていることを全国紙で告白し、今、話題になっている作家の坂東眞砂子
 その行為自体は、狂的な愛猫家のそれとはまったく真逆ではあるが、わたしは、その心性自体は非常に近しいものだと、感じる。
 坂東氏もまた、自己を慰撫するように、猫を可愛がる人ではなかろうか。彼女の「人が愛せないから猫を愛する」という言葉は、まさしくそれを象徴してように、感じる。

 彼らは、自己と他者(――ペット)を同一のものとみなし、依存的な関係を結ぼうとする。その関係性に距離はない。肌と肌が常に密着していて、なんら侠雑物が入る余地がない。
 「"わたし"は"かれ"であり、"かれ"の神である――」
 彼らの根本にある観念は、これだ。
 ゆえに、自分の望むものはペットの望むものであると、信じて疑わない。自らが与えてほしいとのぞんでいた愛を彼らはそのままのかたちでペットへ切々と注いでゆく。
 それが極まれば、ペットの生殺与奪の権まで自らのものとして当然と思い込むだろう。
 坂東眞砂子の行った行為は、ちょうど狂的な愛猫家の左右反転した姿――鏡像にちかいのでは、と私は感じる。

 ただ過剰に可愛がるではあきたらずに、歪んだ醜い己の心性すらも投影し、泣きながら「猫を殺している時、自分をも殺しているんだ」などと、わけのわからないことを言いながら(――とはいえ、これも共依存的愛猫家を象徴するひとことだな) 生まれた仔猫を崖下に放り投げる。
 それは、狂的な愛猫家の心の裏返った様であり、鬼子母神的な、ある種普遍的な歪んだ母性のありよう、と映る。

 わたしは、仔猫殺しそれ自体が、そこまで罪深い行為であるとは、思わない。
 いのちは、誰かの都合で祝福されたり、あるいは屠られたりするものだし、そもそもわたしたちはなにかを殺さなくては生き長らえることのできない業を背負っている。
 殺された仔猫は可哀想なのは確かだが、この世とは、残酷で不条理な、そういうものでもある。
 とはいえ、「生の豊饒性」などどつまらぬ詭弁をたれて、いくらでも忌避できる道をあえて避けて、生まれたばかりのいのちを無残に葬るという選択肢を選び、その反論がつのると、何が批判されているのかもわからず、またどうでもいい屁理屈をたれる彼女と友達になりたいか、といわれればNOだ。
 不気味だし、気持ち悪いし、頭が悪いし、なにより愛がない。

 彼女へ、ペットの避妊手術の重要性やら、ペットの飼い主としての倫理観やら、いのちの大切さやらを懇々と説いたり、あるいは、彼女の稚拙な論理を論破としてもたとしても、それは彼女の耳に届かないだろう。
 彼女はそれを欲しているから、そうしているのである(――それは、彼女の文章の端々に漂っている。彼女は、車で犬猫を轢き殺したしまった時のように、うっかり猫を殺しているわけではない)。
 だから、たとえ咎められ、その行為を止めたとしても、彼女は、それとは違う残虐な行為を無意識のうちに、求めていくだろう。

 彼女の自己像は、愛のありようは、歪んでいる(――と、私は感じる)。
 そして、その歪みは、あれはダメだこれはダメだ、と対処的に指摘しても、真に正されるものではない。
 彼女が、自らの心に眠る秘密(――なぜわたしは人を愛せないのか、とか、なんで世界中の男が私を好きになって欲しいだなんで思うのか、とか、なんで生き物の死骸を見ると落ち着くのか、といったさまざまな「自分が自分でしかない理由」)の源流を見つけ、開示し、縺れて歪んだ自己をほぐさなくては、それは、決して矯らないだろう。
 そして、それがかなうのは、まさしく文学的営為、それのみである、と思う。

 だからーー。
 書けばいいのである。
 つまらぬ屁理屈をこねた自己満足エッセイではなく、手垢のついたフェミニズムエッセイでなく、グロテスクなおのれの欲望を満足させるホラー小説でなく、おのれの闇を開示する、自分の心の痛みに直接触れる、小説を。
 自分を守り慰撫する文章でなく、裸の自分を曝し、傷つける文章を。
 みたくないと今まで避けていた最低の自分を、見つめ、書けばいいのだ。
 彼女が見なければいけないものは、仔猫や鶏の死骸だとか死霊だとか、そんなものでは、ない。
 彼女が見るべきなのは、もっとグロテスクで、悲惨で、どうしようもなく、手におえない、自分という魔物、である。
 彼女が自らの業を作品で昇華しきった時、もしかしたらその作品は、自己愛の強い淋しがり屋の悲しき愛猫家たちにとっても、意味のある作品になるかもしれないだろう。

 ―――と、彼女の著作を満足に読んだこともない私が言う、の巻。
 だってーーー、彼女、文章もきもいんだもーーーん。まこは爽やかな文がよみたいっつーのっっ。