中島みゆき 「ララバイSINGER」

 10代の頃、熱狂的なファンだった頃から、うっすら思っていた。
 うっすら思っていたけれども、そんなことを言ってはいけないと思っていた。
 でも、もう耐えられない。いってしまえ。

 「中島みゆきは、笑える」

 あぁぁぁ、本気のみゆきのファンの皆さんごめんなさい。
 それは「うらみ・ます」や「化粧」をはじめて聞いたときにふと、脳裏によぎり、「夜会」のビデオをはじめてみた時にそのむずむず感は、確信となった。
 中島みゆきが本気になって世界に没入して、歌の主人公となって演じれば演じるほど、それは、一面ひどく滑稽なのだ。
 同じことを松本人志がやったとして、それは充分笑いとして成立するんじゃなかろうとすら思える。
 しかも、その滑稽さが困ったことに、ガチンコなのか演出なのか、天然なのか計算なのか、いまいち、わからない。
 普段がなんとなく笑っちゃいけない空気をかもし出しているのはもちろん、おっぱいつけて「アテンションプリーズ」とか明らかに狙いでやっている時ですら、わざとデフォルメしまくった歌唱で「わかれうた」を歌っているときですら、わからない。いま、おれは、中島みゆきが意図している笑いとは違うベクトルで笑っているのでは、と冷や汗が出る。その笑いには微妙なずれがあって、安心して笑えないのだ。
 なんかこう、クラスに必ず一人いる「なんかずれている子」を笑っているような気がして、後味が悪いのだ。
 しかもそのズレは、昔はさほど目立つものではなかったのだけれども、90年代後半ごろから、どんどん大きく広がっているような気がする。
 中島みゆきはいつのまにか、郷ひろみや矢沢栄吉、長淵剛、長島茂雄アントニオ猪木など、ブラウン管の向こうにはわりとたくさんいる「本気な姿がなぜか笑いを誘う人」のひとりになってしまったんじゃ、と、わたしはひっそり思っている ――が、だれもそんなこと、いいやしないっ。中島みゆきを語る人は、みんな彼女に心酔しているのものなのか、そうなのか?

 で、新作「ララバイSINGER」。
 笑えるんだけれども、笑っちゃいけない空気がたまらない、たまらないぜっっ。という作品でした。
 ボーカルの七変化で見せる演出が、なんとなくおかしいのは「パラダイスカフェ」あたりからのいつもなのは、もちろん、「がんばってから死にたいな」と絶叫する「重き荷を負いて」など、ここで笑ったら不謹慎とこらえればこらえるほど笑える「お葬式で笑いが止まらなくなるの法則」が大発動。むずむずしながらも、しかし、いつのまにかはっと感動させられるのは、いったい何、という不思議な一曲。いろんな意味で完成度高い名曲です。長淵の「Captain of the ship」の位置にある曲かと。

 というわけで、こんな風にしかみゆき作品を楽しめなくなった俺を殴ってくれ。