しょせん この世は ひとりなり
泣くもわらふも 泣くもわらふもひとりなり

 久保田万太郎のこの小唄が時折わたしの心の奥底で響く。

 どういう話の流れだったか、わからない。
 「わたしだって、本当はもっと情緒的にだらしなく人と凭れあって生きていきたいですよ。愚痴っぽい話をだらだらしあって傷を舐めあったりとか、鼓舞しあうために褒めちぎりあったりとか、そうやってずるずると仲良しこよししたいですよ」
 わたしがそうというと、友人は、
 「そうは、けっして見えないけど」
 と、返した。
 また違うある友人は、
 「基本的にATフィールド張っているよね。これ以上俺のテリトリーに入るな、みたいな。そういう警戒心が強いよね」
 と、私に言った。
 むしろずけずけと私の領域を侵犯して欲しい。そっとしておいたりなんてしないで、がんがん暑っ苦しく馴れあいにきて欲しい。私は、意識の上ではわりと本気でそう思っているのだけれども、無意識では真逆のことを思っているようだ。

 近頃、やっとわかったことがある。
 個々人みんなが、それぞれ一生背負っていかなけばならない、一生をかけてクリアしなければならないテーマをもっている。それが「業」というもので、そして、わたしの業(テーマ)はおそらく「孤独」であろう、と。

 わたしは人一倍淋しがり屋の癖に、ひとりが大好きだ。
 誰かのため何かのために縛られることを一等嫌がるくせに、人の輪から外れている自分を悲しいと思う。
 かまって欲しいのに、かまわれるとむずがる、わがままな子供なのだ。
 なにがしたいのか自分でもわからない。明らかに矛盾している。
 だから、どうしても人との距離がうまく取れない。
 ずけずけと相手の領域を無視して入り込んで失敗したりする反面、どうぞ仲良くなりましょうと、誰かが歩みよってくると空恐ろしく感じて後ずさりしてしまう。

 だからわたしは、いつも孤独だと思う。誰といても、なにをしていても、そう思う。
 孤独は嫌だ、何度もそう思う。しかし孤独は、いつのまにかなによりわたしそのものになってしまった。いや、いつのまにか、ではない。生まれた時から、そうだったのだ。

 昔からわたしはそうだった。
 幼い頃の私を思い出す。六人家族のなかで、いつもわたしはひとりだった。団欒のさざめきのなか、どこか、わたしは一線を引いていたのだ。なにが理由というわけではない。馴染めない、と思った。このまじりッ気のない情緒の繋がりにあって、私は違和だ、と、感じた。
 しかし私は、その団欒の風景が嫌いではなかった。
 壁一枚向こうのさざめきを聞きながら、ひとり眠るのが好きだった。向こう側の幸福な気配を感じながら、ひとりで満たされる。それが居心地よかったのだ。
 それは今でも変わらない。
 人の心にべったりと近づくことが出来ず、しかし、あからさまに遠のくいて孤高を気取ることも出来ない。だから、わたしは人の輪の内と外の境界のようなところにいる。そこでぼんやりと楽しげな空気を感じるのが、一番落ち着く。ここが自分の居場所だ、と感じる。
 私の孤独を否定することは、私を否定することになる。
 だから私は私の孤独を認める。孤独だから私なのだと、諦めながらも認める。
 そして満たされることのけっしてない欲望を抱えながら、それでも生きていくのだ。