答えのないやおいの明日に問いかけてみる

明菜ちゃんのテキストが読みたいよう、とか思っている人は極めてどうでもいい、先日の話の続き。
てわけでやおいの海におもいきって飛びこんでわたくしめなのですが、つくづく思ったのが、やおいってのはやっぱり女性の文化なんだなぁ、と。
そもそも読者も書き手も男性なんていやしないっ。
「最近では、やおいを読む男性、腐男子なるものもいるらしい」
なんてこたぁいわれとりますが、本当にそんな人いるのかね?
ショタケット」とか「雄ケット」とか男性をもターゲットにした即売会が現在開かれていることも、70年代後半の24年組ブームの時、魔夜峰央野阿梓がいたように、高河ゆんCLAMPらバブル期の同人作家ブームの時に松崎司がいたように――って松崎さんはここ数年でゲイ漫画に完全転向したみたいだけれども、書き手として、男性が極少数ながらもいたということも、知識として知ってはいますよ。でも実感としてまるでない。

実際、キャラクターがショタとかあるいは筋肉・親父系とかで、性描写が激しい内容の、つまりいかにもというものにはやはりそれなりに男性読者がいる感じっぽいけれども、そういった男性が読み手としてコミットできる可能性を持つやおいをわたしの心はやおいとして認めていない、のだ。――そんな自分の心性をそこに発見してしまうのだが、この辺は機会があれば後述したいが、やおいの大衆化に関する面倒くさい話になりそうなので今日はしない。
んでまあ、そうでないやおいを男性が買っているのを、わたしは見たことがないっっ。
まんだらけでもK-BOOKでもビックサイトでも、やおいを本気買いしている男性、おれは見たこたねんだっっ。

ま、前回のコミケでは、わたしは書き手(売り手)として参加したわけだけれども、読み手は見た限りではやはり100%女性。いわゆる同じジャンルの知り合いに聞いたところ、その人も「購入者はほぼ全部女性、男性が買うと転売屋か原作関係者なのではと少し警戒するほどに珍しい」とのこと。もちろんある友人からは「男性、稀にだけれども買いにくるよ、ていうかある男の子は連れの男性に私の本薦めていた」という発言もあったわけで、いるにはいるだろうけれども、とはいえツチノコとかイッシーとかヒバゴンとか、つまりは幻の珍獣クラスなのだよ、腐男子

で、なんでこんなに腐男子不在論を語っているかというと、それはつまりはまぎれもなく自分が男性なのだから、につきるわけで。いないはずの腐男子がいるよ、目の前に、ていうか自分がそうじゃん、という。これは一体なんなんだ、と、思うわけですね。

すんごく変な話なんだけれど、わたしはわたしの書いたやおいをあんまり男性に読んで欲しくない。ゲイ・ストレート・腐男子関係なく、できればご遠慮していただきたいと、思っている。
それは、なんで? 自分の心にきいてみる。
「だって、彼らにはわからないでしょ」
もうひとりの私はそう答えていた。
物凄いアンビバレントな感覚だと、我ながら思う。でも事実そう思ってしまうのだから仕方ない。

んじゃ、自分は腐女子と完全にマインドとしてシンクロしているのか、というとこれまた微妙なわけで――。
女性の世界でしかないやおいの海に飛び込んではじめて、自己の男性性に気づき、彼女らと同化できない自分というのを自覚したりもしたのですよ。
彼女らが女性であることを認識するのとおなじように、自らが男性であることを自覚せずにはいられなかった、と。
これって、灰色を白の横に置くと暗く見えるけれども、黒の横に置くと明るく見えるよ的な法則? なんて思ったりしてね。
ま、だからといって、自分がキモオタやゲイになるつもりはないのですが。

ただ、ひとつわかったことがあった。わたしは常々「やおい」の性別は飾りでしかないと思っていた。でもそれはちがったのだ。
泣きゲー」といわれる近年の男性向けエロゲームをはじめ、最近富に増えてきた「感動」を売りにしているオタク男性向けエロ作品は、ストーリーの骨格だけ取り出せば、古典的なBLときわめて似ている。男性向けラノベ出身作家である乙一の、一定の作品は80年代のJUNE小説にとてもよく似ている。
しかし、それをもってしても、同じオタクであっても、男性と女性の間には深い溝がいまだに存在している。それはなぜか。そこに描かれているのは「男性/女性」だから。そのことが、最近になってようやく理解できたのだ。
「それ」はともに「性」を描くものである、であるからこそ「性別」その一点において、ふたつの「それ」は永遠に反発しあうのだ。って、期せずにポエティックなレトリックになってしまったが、つまりは、だ。
やおいは女性が読むもの、それが当然じゃないか」
それがわからなかった。それだけである。
それほど性別というのは、世間においてウェイトをしめるものなのだなあ。
そのあたり、わたしはスコーンと抜けていて、いまだによくわかっていない。
だからこそ、わたしはやおいがただのハーレクインになることを、やおい論がただのフェミニズムになることを、嫌っていたのだが、まあ、世間はそういうものなのだと、これからは認識しよう。

女性の為につくられたやおいやおい論。わたしは女性ではないという一点において、それはわたしのものでは、ない。わたしを規定してくれる先人の言葉は、なにひとつとして、ないのだ。だから――、わたしはわたし自身で新たな地平を開いていかなくてはならない。
もっとよくわたしを知り、わたしを受容するために――。
とはいえ、わたしの求めていたそれらを捨て去るわけでもなく、もちろん普遍的・体系的ななにかをつくりあげるつもりも毛頭ない。
わたしが興味があるのは、わたしとわたしの周囲に取り巻く愛と理不尽、それだけなのだ。
つまりは、好き勝手にこれからも書くよと、そういうことです。
やおいに興味のない人には、およそなにいっているか、わからないテキストだろうけれども、気が済んだので今日のおしゃべりはおしまい。