ゴシップという二次創作

 わたしのサイトにあげているテキストを、ある友人は、よくできた二次創作だと、云った。
 そういうことになるのかもねと、私は返した。
 私の取り扱うメディアで取り沙汰される人たち――彼らはなにを思い、考えているか。
 様々に憶測が飛び交う時もあるだろうそれを知るというのは、本当は誰もできないとわたしは思っている。
 「誰も」だ。肉親や本人すらも、それはできないのではなかろうか。
 業界人風を吹かせる人が「あいつは本当はね――」であるとか「裏側でこんなことが――」というそれら、あるいは関係者、消息筋からと流れるまことしやかな噂、それらは、誰かにとっての「事実」ではあるのだろうけれども、それがたったひとつの「真実」とは、私にはどうにも思えないのだ。
 「関係者」――例え本当に関係者であっても、はたしてすべてがわかるのだろうか。自分に引き寄せて考えればいい。会社の同僚や上司・部下を言うには及ばず、親・兄弟・配偶者にすら、云わないでいる感情や思考など、山ほどあるではないか。
 では「本人」の発言ならば、それは真実なのか。それも違うだろう。無意識下に眠り気づかずにいること、あるいは意図的に抑圧してなかったことにしていること、気づいてはいるがわざわざ云わないでおいていること。いくらでもあるだろう。
 語られる、あるいは目に見えるそれらは、すべてが、ある人から見たある一面に過ぎない。
 とはいえ、わからないのだからわからない、というわけにもいかないので、なんとかする。
 そうやってわたしは、手札の情報を取捨選択して、物語――のようなもの、にする。あくまで物語、だ。
 それはわたしの願望や欲望がつまった極めて個人的な物語だ。いくらわたしの副次的な物語を多くの人が共感し、「関係者」や「本人」がみとめようとも、それはかわりない。
 たまたま、その人の内包する物語とわたしの物語が響きあったというだけに過ぎない。たったひとつの真実であると思い上がることなどわたしは出来ない。
 だからわたしは、ゴシップ・ジャーナリズムの醜さをなによりも嫌悪する。
 彼らは、内幕をしたり顔で暴き、これこそが真実だと嘯いているようでいて、ただ「金と色」というわかりやすい欲望の定型に嵌め――結局語っている者自身の自らの内面の浅薄さを披瀝しているにすぎないからだ。
 二次創作として、それらはあまりにもレベルが低すぎる。まあ、彼らは、まさか「創作」などとは微塵も感じてはいないのだから仕方なかろうが、わたしはその程度の創作であるなら、それを必要としない。
 語るということは、鏡だ。醜く浅薄なことしか語れないのは、その人が醜く浅薄だからだ。
 だからまあ、わたしも、テキストにあるような人間なのである。
 オチてない感じもするが、今日はこれまで。

 ついでにひとつ。
 経験則から云うと「関係者筋」の話よりも、「熱狂的なファン」の方が深みのある「創作」をしてくれるような気がする。
 ファンの方が、付け焼刃の「業界関係者」なんかよりもだんぜん手持ちの情報量が違うのだ。