大阪万博とディスカバージャパンと小柳ルミ子

ゴールデン☆ベスト 小柳ルミ子 シングル・コレクション

ゴールデン☆ベスト 小柳ルミ子 シングル・コレクション

 1970年の大阪万博ののべ入場数は6421万8770人である。日本国民の約半数がこのイベントに参加したという計算になる。まさに国家的一大プロジェクトだったわけだが、とりわけ特記すべきはその輸送である。
 全国民を全国から大阪にむけて、大阪から全国にむけて輸送する。地方空港と高速道路網の整備がはかばかしくなかった当時、この国民総移動といっても過言でもない大型輸送の多くを担ったのが国鉄だった。このとき既に赤字を累積するようになっていた国鉄であったが、複線化、電化、高速化、新線建設、車輌の増備など、様々な設備投資を全国でさらに推し進め、1970年を乗り切る。
 はたして1971年、国鉄の設備はいささか過剰になっていた。大資本が困った時に現れるのはいつもの電通屋さん。
「需要がないなら、生み出せばいいじゃない」
一大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」がこの年からはじまる。
 当時、旅行といえば、修学旅行、会社の慰安旅行、新婚旅行、家族旅行といった団体旅行か、もしくは登山やユースホステルを渡り歩く成人男性の貧乏旅行――いわゆる「カニ族」、このどれかだった。そこに新たなターゲットをみつける。「若い独身女性」だ。
 一定の余暇と可処分所得をえて確実に社会的な位置を持つようになってきた若い女性へ向けての、気の置けない女友達との、あるいはふらりと気ままな一人旅の提案。旅のテーマは癒しと自分探しだ。コピーは美しい日本と私(――女性のナルシシズムを刺激する絶妙なコピーだよな、これ)
 キャンペーン対象は日本全国。全国各地に点在する地理的条件が発展にそぐわず近代化が遅れ、高度経済成長から取り残された旧街道沿いの宿場町や城下町、港町を「古きよきかつての日本」をあらわすアミューズメントパークとする。具体的場所で言えば、萩、津和野、飛騨高山、倉敷、大原、嵯峨野などだ。つまりは、これ。
 「風情のある景色見てー、地元の美味しいご飯食べてー、おっきいお風呂に入って―、ちょっと変わった体験とかもして―、今までと違う自分を見つけたりなんかして―、あと地元の人と交流なんかも出来たらいいよねー」
 今でいうF1層やスイーツ(笑)向けにパッケージ化された「旅」のかたちが、このとき生まれた。この延長に「るるぶ」が、「世界の歩き方」が生まれる。全国の地方の多くの旧市街が観光地化するのも、これがきっかけといっていいだろう。
 新創刊した女性誌「an・an」「non-no」にはタイアップで特集を組み、国鉄提供のテレビ番組「遠くへ行きたい」も制作した。
 高度経済成長を象徴した「大阪万博」のあとの揺り返しもあったのだろう、日本の伝統と古きよき風景を再発見するというこの内省的なキャンペーンは、ターゲットの若い女性(――彼女らはアンノン族といわれるようになった)だけに留まらず大成功を収めた。
 その時代のアイドルとして存在したのが小柳ルミ子だ。デビューから10年近くの間、一貫して彼女が歌で表現していたのは、今の彼女からは想像できない「和」の世界だった。
 16歳でデビューし、新・三人娘として南沙織天地真理と人気を分けた彼女だが、改めてシングルを聞きなおすと、あまりにも古式蒼然とした楽曲に驚く。南沙織天地真理が同世代的な若若しいポップスであるのに比べて、小柳は演歌といってもおかしくない叙情的な純・歌謡曲だ。ひと世代前のいしだあゆみ、スパーク三人娘らと比べてもなお古い。
 佇まいも南、天地ともに、歌の上手い少女がふらりと歌手になったという風情なのに比べて、デビュー時点から小柳はビブラートもファルセットも完璧で実にプロフェッショナル。
 しかしこの幼い頃から歌手を目指して一途に努力していたのが仄見える少々古めかしいありようは、擬古典的で淡色の「和」の歌謡曲と実に相性がよく、少女たちの「ディスカバー・ジャパン」の一景として世に響いたのであった。
 デビュー曲にしてミリオンセラーの「わたしの城下町」、日本歌謡大賞を受賞した「瀬戸の花嫁」はもとより、サビで民謡調になる「漁火恋唄」、牧歌的な日本の恋の風景がよい「春のおとずれ」(――これは岩崎宏美「春おぼろ」の姉妹作だな)、祇園祭をテーマにした「ひとり囃子」など、味わい深い佳曲が並んでいる。
 南、天地らが加齢と共にセールスが低迷していくのに比べて小柳は歌の世界で北へ南へと全国行脚しながら、安定したセールスを築いていく。
 しかしそれも77年まで。この年、国鉄の「ディスカバー・ジャパン」は終了。小柳ルミ子も、石垣島を舞台にした「星の砂」、阿寒湖を舞台にした「湖の祈り」と、北の果て、南の果てに行き着いてしまう。ヒットしたのはここまでだ。
 78年からは国鉄山口百恵をイメージガールにした「いい日旅立ち」キャンペーンへと御色直し。またこの年に、新東京国際空港(成田空港)が開港。アンノン族は国外へと飛び出していく。
それと同時に歌謡曲は国内旅情から海外旅情へとシフト。
 78年1月の「カナダからの手紙」(畑中葉子・平尾昌晃)のヒットを端緒に、80年までの短期間に「飛んでイスタンブール」「モンテカルロで乾杯」(庄野真代)「魅せられて」(ジュディ・オング)「異邦人」(久保田早紀)「パープルタウン」(八神純子)「モンローウォーク」(郷ひろみ)「謝肉祭」(山口百恵)と、これだけヒットが生まれた。
 小柳もこの流れに乗り、海外にイメージを飛躍させ79年に「スペインの雨」をリリースしているが不発。やはり小柳ルミ子は「ディスカバー・ジャパン」を歌ってこそなのだろう。その後は、和風回帰した「来夢来人」(ライムライトと読む)を中ヒットさせるが、低迷する。
 人々の旅のロマンチシズムは異国へと向かったっきり帰ってこない。そこで84年に末期の国鉄が最後に打ったキャンペーンが郷ひろみをイメージキャラクターにした「エキゾチック・ジャパン」。テーマは「日本こそ異国だ」。
欧米のジャパネクスを逆輸入するようにして、異邦人感覚(センス・オブ・ワンダー)で「日本」を見る。この流れを読んだ中森明菜リオのカーニバルサハラ砂漠を歌ったのと同じ感性で、「DESIRE」「二人静」で「異国としての日本」を歌うのであった。
 その頃小柳ルミ子は――。83年に「白蛇抄」と「お久しぶりね」で、レビューと肉食獣的お色気に特化し、あの、「小柳ルミ子」になっていた。かつて表現していた日本情緒は跡形もない。