嶽本野ばら「デウスの棄て児」

デウスの棄て児 (小学館文庫)

デウスの棄て児 (小学館文庫)

 超解釈による天草四郎一代記。
 すっっぱらすぃっっ。豪速球ど真ん中のこれこそJUNE。栗本薫榊原史保美江森備萩尾望都山岸凉子、このあたりのラインナップがお好きな方にはたまらないだろう一冊。JUNEは自己の存在を賭けた闘争なんだよな、ということを再認識させられた。

 前半、望まれぬ子であった天草四郎に次々と襲い掛かる苛烈な運命、そのたびに魔性の階を一段ずつ上がっていく様が凄まじい。
 悪魔の子と罵られ、この世のどこにも存在を認められない彼は、この世の理の全ての闇を知り、そして魔少年となる。生血がどくどくと溢れるような激しい憤怒と憎悪。キリスト教徒をひとり残らず血祭りにあげる、そのためだけに、彼は島原の乱を引き起こすのだ。
 味方であるはずの島原の乱の首謀者たちを四郎が謀殺するさまの激しい筆致は、これ「日出る処の天子」「江森三国志」等と同等にして圧巻。すっげぇ。
 彼の、神を、宿命を、否定すること、この世の生きとし生ける者を否定し、哄笑し、侮蔑すること、それが自らの存在証明となるという哀しみ。「ここにいてもいい」「ひとりきりではない」「生まれてよかった」ただそれだけがほしくて、だけれどもそれだけがどうしても手にはいらなくて、ひたすらに心が冷え、その分理に冴え、鋭く人の心を刻んでいく、四郎は悲しい生き物だ。これこれこれこれ。これがJUNEですよ。
 しかし彼は神を詐称することで、本当に信徒たちの神となってしまう。
彼が苛烈な宿命の最中、常に抱きしめる腕を望んでいたのと同じように、信徒である彼らもまた、抱きしめる腕を、探していたのだ。そのようにして彼らは、ただ静かに穏やかに心を抱きしめ、お互いを救いあうようになる。
 原城での決戦前夜、死を決した信徒たちに向かって「棄教し、城を出ろ」と叫び、十字架を折り、キリストの絵を踏みにじる四郎と、それにただ涙するしかない信徒たちの姿は壮絶だ。
 ラストシーン、紅蓮の炎に包まれた原城で四郎は叫ぶ。それは勝利の凱歌だ。
「天主よ、私は貴方に勝ったぞ」
 人の心の温かなぬくもりを、信じあう確かな心を、神でも魔でもない、愚かでささやかな人という生き物であるからこそ、手に入れることができた。全てが安らかで暖かいこの場所を、永遠に孤独な神にはわからないだろう。だからこれは、まぎれもない勝利なのだ。
 おらしょの響きの中、彼の、神への長い戦いは終わりを迎える。
 宗教の――だけではない、愛の、人の生の、光と闇が、この一冊につまっている。


 ただひとつ苦言を言えば、作者はこの物語をあまりにも書き急ぎすぎている。この二倍の文量があってもいい。
 宗教の欺瞞、人の世の欺瞞、それらはリアルに伝わってくるのだけれども、ポルトガルの、天草の、原城の、それぞれの情景の描写が薄い。読んでいても脳内に景色や匂いや気配がぶわっと広がる感じがしないのだ。空気感というか、「今わたしは物語の中にいる」と読み手に思わせるライブ感があったほうが、この話は絶対いい。それは物語の歩速を若干緩めて、ちょっと描写を緻密にするだけでできることだ。
 あと後半、四郎が山田右衛門作や周囲の巫女らとの関わりをもって、いつのまにかひとつの救済を得ているところが少々唐突に感じる。憎悪と憤怒の化け物だった四郎が、なにがあったというのもないのに突然、憑き物が落ちて、普通の少年になってしまっているのだ。わかる人にはわかるけれども、なにかひとつでもいいからエピソードを置いて、もうちょっと説明したほうがもっといい。 このあたりもっと書き込まれていたら大傑作JUNEになっていたはず。
 あとJUNEッ子のまこ的には、自らユダとなった右衛門作と四郎との絶対的な関係性をもっといっぱい描写してほしかったぞ。と。でもまあ、これだけでも充分に楽しめる濃厚良質JUNE。JUNEッ子は是非もなく読むべし。今の時代、むしろJUNEは乙男が書くものなのかね?
 最後に解説の橋口いくよ。お前、ちょっと空気読め。なに作者に媚売った甘ったれた「あらすじ解説」してんだよ。しかも無駄にぶりぶりだし。そういう作品じゃねぇだろ?気づけよ。