皆川博子 「蝶」

蝶 (文春文庫)

蝶 (文春文庫)

 いままさしく命の灯火の果てようとしている、今際のきわの老婆がそこにいるとする。
 彼女は身を横たえ、眼を閉じながら、しきりと口を動かしている。苦しげなふいごのような息にまぎれた言葉未満の何かがそこからかすかにもれている。
 混濁とした意識が、彼女に最期の夢を見せているのだろうか。陰鬱としながらも、あなたはそこに耳を寄せてみる。
 かすかの音の無意味な響きに聞こえたそれは、じっと耳を済ませていると、やがて言葉の連なりに聞こえてくる。それは、幼時の深い傷痕。幼い頃に彼女の犯してしまった、おそろしく、かぐわしい、思い出してはならない、話してはならない、聞いてはならない、泥濘の底から湧き立つ泡のような、罪の告白だ。
 まさか。あなたはおもわずはっとして顔をあげる。しかしその時、老婆は静かに息を引き取っている。それは真実なのか。はたまた悪い幻だったのか。確かめる術はない。
 ――そのような一冊、といえばいいだろうか。原罪的エロスにみちたあやかしの傑作。うたと罪と幻によって彩られた八つの短編集。
 死線を渡るときに誰しも見るだろう、夢幻と現実が混沌とまざりあった、美しく禍々しい、凄絶なる一瞬の景色。それを小説で味あわせてくれる。
 それは久世光彦の短編集「桃」に近いタッチといえばいいだろうか。齢75を越えた彼女だからこそ作りあげることの出来た老人耽美の世界だ。みだりがわしく、血みどろであるのに、透明で乾いている。
 物語の舞台はすべて戦前から終戦直後であり、描かれる世界は死や罪に蔽われている。それは、その時代を少女として生きた作者自身のリアルが投影されてもいるのだろう。
 片目のない男の、虚ろな眼窩に挿しいれられるたくさんの紫陽花の花。イギリス将校を殺して奪った一丁の拳銃。バグパイプになった網元の少年。大陸がえりの麗人の裸身に走る幾条もの陵辱の痕と、震えながら触れる少年の手。蝶を食べる女。オニヤンマの首の勲章。戦災孤児は桟橋に座り波に踝をなめられながら挫折した詩人の幻を見、幼女は傘の先で憎い友達を刺し殺し、特攻崩れの青年は白黒ショーで日銭を稼ぎ、美しい女ふたりは布団の中で湿った抱擁をくりかえす。
 生者は苦しみもだえ、罪を重ね、死線を越える。残された者は死者を忘れる。しかし、いつしか彼らも冥界の海にたどりつく。そしてうすぼんやりした靄の向こう、影も形もはっきりしない所へと、全ては遠のいてゆく。なにもかも跡形もなくなっていく。残るのは蝶の羽ばたきの鮮やかな残像だけだ。