ある、ラーメン屋

 忘れられないラーメン屋がある。その昔、私が幼い頃に住んでいた街にあったラーメン屋だ。
 私の暮らしたその街は、当時、開発の途上にあったベッドタウンで、アスファルトの新しい広い街路や真新しい一戸建ての区画から一歩外れると、桑畑や雑木林、田圃やその間をうねる小川といったものがまだ広がっており、かててくわえて、都心への経路は古くからある県道を走る路線バスで、30分ほど走ると都心に繋がる大きな鉄道駅へとようやく辿りつくという、ベットタウンという言葉も面映い、実にひなびた田舎だった。茅葺の農家というのは既にさすがになかったが、堆肥の牛糞の臭いだとか、セスナ機で空中散布される農薬、といった記憶はある。
 そのラーメン屋は古くからある県道沿いにあった。当時からしていささかくたびれた感のある、一階が店舗、二階が住居、というのが長屋のように連なった建物の中の、そのひとつにあった。右隣がスナックで左隣がクリーニング屋だったと思う。
 その店は、入り口のガラスの引き戸の倍ほどにしか幅がない。かといって奥行きもさしてない。カウンターには椅子が四つほど、テーブル席もあったがふたつのうちひとつは、新聞やら雑誌やら製麺所の名前の書かれたプラスチックのケースなどがどさっと置かれていて、とても座れるような雰囲気ではない。その先には、上がり框の向こうの暗闇が見える。店内は雑然としていささか不清潔で、それなのにどこか殺風景でもあるのが、まるで独身男性の部屋のような趣があった。もちろん、店主の家族構成など当時の私は知るわけもないのだが。
 メニューは、ラーメン、チャーシューメン、ギョーザ、以上、それのみ。ギョーザはお持ち帰り可。テレビやラジオといった類のものもなく、人づき合いの下手そうな店主が、何も余計なことは言わずうつむき加減で黙々とラーメンとギョーザを作る。しんしんとした空気の中、客である私たちはそれを黙々と食べる。
 ラーメンは、ラーメンというよりも支那そばといった方がいいような、骨太な味。スープは醤油仕立てですきっとしていて、麺は細めの黄色味の強いちぢれ麺で、腰が強い。またチャーシューがうまかった。安っぽくごてごてと豪華に盛ったり、これみよがしにするのでなく、余計なものを削ぎ落とし、シンプルで、味に筋が一本とおっていて、うまい。
 散歩がてらに様々な店――おもに飲食店、をチェックすることに怠らなかった母に連れられてご相伴に預かった当時の私だったが、そのラーメン屋は、味といい店の雰囲気といい、郊外によくある親しみやすい佇まいの寿司・レストラン・定食屋・ラーメン・そば・うどん屋、といったものと一線を画していた。別格といってもいい、孤高の佇まいがあった。
 「無愛想で出前もしないけど、美味しいから」ということで、私は母に引き連れられて時々、ここに訪れた。母はラーメン、私はチャーシューメン、ギョーザは店内で食べる用と持ち帰り用で別個に頼む、というパターンが多かったと記憶している。
 ラーメンがB級グルメのひとつとしてメディアに取り上げられることの多くなった現在ならば評判になっていたかもしれないが、ひなびた県道沿いにひっそりと、とても流行っているように見えない姿で――まぁ実際そうだったんだろうけれども、とはいえ、その味ゆえに一部の住人に愛されて、その店はあった。


 幼いある日、私は銀座の雑踏で、財布をなくした。
 日曜の夕方、学習塾の模試で都内に出たついでに、銀座にある鉄道模型屋に寄ろうとして、場所を確認するために近くの電話ボックスの電話帳で住所を確認して、その時にうっかり電話機の上に財布を置き忘れて、五分後に気がつき戻ったときにはなかった。
 わたしは近くにあった数寄屋橋の交番に訪れた。「財布落としました」
 警察官はわたしに紛失届を書かせた。「じゃ、もういいよ」
 いいよ。ではない。よくない。私はどうやって帰ればいいというんだ。ここから電車とバスを乗り継いで一時間以上かかるというのに。
 まごまごしている私に警察官は10円を渡して追い払った。家に電話しなさい、と。仕方ない。電話した。
 「財布落として帰れないから、迎えに来て、有楽町駅の銀座口改札前にいるから」
 10円など市外局番ではすぐ切れてしまう。できるだけ要領よく言ってみたが、はたして。見ると改札口の時計は四時過ぎ。
 そして私は待った。六時くらいまでは平気だった。しかし来ない。何故来ない。
 体よく追い払われた交番にもう一度いってみようか、やめようか。もしかしたら、他の改札口にいるかもしれない。いや動いている間にすれ違いになるかも知れない。遭難した時はした側はみだりに動いちゃいけないって、誰か言ってたし。聞きかじりの変な知識だけは昔からあった。
 しかしなにも進展はない。すれ違う大人は山ほどいるのに、誰も気にとめない。
 八時。いや、もう、絶対おかしい。どうしようもない、どうにもできない。惨めだ。情けない。泣く。こんな時間にこんな所で、子供が泣いてても、おかまいなし。都会はおそろしい。
 九時。泣いても仕方ないし、動いてみる。日比谷口、中央口、京橋口、有楽町駅の周辺をぐるりと何周もする。手がかりなし。また警察に行こうか――でも追い払われないために、どういえばいいのだろうか。ぐるぐる考える。
 十時。ふと地下道の入り口が目に入る。ああ、そういえば、有楽町駅って地下鉄にもあったよな、まさか――。いた。母が。
 「なんでこっちにいるのさ。有楽町駅の銀座口改札っていったじゃん」
 確かに地下鉄駅に正式名称で銀座口改札というのはない、とはいえ憎まれ口をいうこともあるまいに。しかしそれに母は叱らなかった。
 母なりに、警察に訪れたり、地下鉄駅の構内放送を流してもらったりと、それなりに探していたそうだが、ことごとくわたしの行動範囲とかぶらなかったらしい。
 とにかく何とかなった。終電近い電車で自宅に向かう。バスはもう終わっていたので駅からはタクシー。夕食は摂っていないでしょ。ふと母は問いかけて、そのラーメン屋でタクシーをとめた。
 こんなひなびた所にまで24時間のファミリーレストランが広がってなかったこの時代、深夜になると子供の入れるような飲食店はほとんど閉まっていたのだが、その店だけ、おそらく隣のスナックの客相手の為だろう、遅くまで開いていた。
 子供相手におよそいい加減な警察やら、機転のきかない母やら――それでもありがたいという気持ちは傲慢な子供である当時の私には持ちあわせていなかった、何よりもふがいない自分が情けなく惨めで、今日という一日を全て塗りつぶしたい気分だった。
 ムスっ垂れたまま、母とふたりで黙々とラーメンを食べた。やっぱりそのラーメンはうまかった。
 それからすぐに、母と共に行動するような年齢でなくなり、またその街からも離れた。そのラーメンを食べたのはあの時が最後だったかもしれない。
 そんなに数多くラーメンを食べているわけでもないが、あのラーメンに勝っているラーメンに、今のところ味わっていない。