つれなのふりや

友人から聞いた話なのだが、エロゲーなどのオタクアニメ系業界では今は「メイド」や「妹系」ではなく「つんでれ」が来ているのだそうだ。
「つんでれ」とはなにやら、と訊くと、曰く、「恋愛ゲー・エロゲーなどで最初はつんつんしているけれども、いい感じになってきたら主人公に過度にでれでれしてくる女性キャラクター」のことなのだそうだ。

「それってどういうの? 例えて云うと『めぞん一刻』における管理人さんとか、『きまぐれオレンジロード』における鮎川まどかみたいな性格のキャラ?」
「あぁ、まどかは典型的な『つんでれ』だね」
「じゃあ、江森三国志孔明さんとか、サーモンのダダ・カズシリーズの一也サマとかは?」
「サーモンの……一也は、あああぁぁ、あれこそ『つんでれ』。一也は『つんでれ』以外の何者でもない。相当ハイクオリティーのつんでれキャラだ。彼は」

それから小一時間ほど、何がつんでれで何がつんでれでないか、ということをふたりして語り合ったのだが、どうやら、わたしはつんでれキャラが思いっきりタイプのようである、という残念な事実が発覚した。

そもそも「つんでれ」という言葉をもって概念化しなくても、恋というものは、総じてつんでれ的なものなのではなかろうか、と私は思う。惧れと好奇心のゆらぎの向こうにある苛烈なまでの他者との一体化願望、それが恋というものなのでは、と。古い歌で、こんな歌がある。


つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる


つれないふりをしてすげない顔をして、そういう人に限ってあっけなく恋に落ちるものなのだ。これは、近世小唄の祖とも言われている安土桃山時代の堺の僧、高三隆達の歌謡を集めた「隆達小唄」に収めされたひとつである。いつの世も恋というのは変わらないのだなあ。

それにしても「つんでれ」といういかにも今時のオタクっぽい語感がどうにも肌にあわない。いかにも雑な生活を送っている人の作った言葉という感じがする。私は「そんなキャラクター達を『つれなのふり』と言い換えてはどうだろう」と、友人に提言した。しかし「そんな小唄、誰も知らないよ」と一蹴された。それもそうだ。私もこの小唄はPANTA&HALの「つれなのふりや」という歌から知っただけに過ぎない。 

「つれなのふりや」は頭脳警察を解散したPANTAが二枚のソロアルバムをリリースした後に自身の新たなバンドPANTA&HALを結成して後にリリースした79年のアルバム『マラッカ』に収録されている。このアルバムは、現在の日本経済の生命線であるオイルロード――中東からマラッカ海峡を経て日本へと到る道中を歌ったコンセプトアルバムである。 PANTAのハードボイルドで男くさい浪漫がつまった名盤として推す人も多い。

「つれなのふりや」でPANTAはレゲエのリズム乗せて「俺の声が聞こえるか」「俺の声に応えるか」「俺の舟に乗りたいか」「俺に舵を任せるか」「俺と海を渡れるか」「俺に体を預けるか」と小細工なしの直球でたたみかける。このあたりの聞き手の煽り方は頭脳警察以来なのだが、そこで唐突に「つれなのふりや」「すげなのかおや」と異化させる。これがいい。

オイルロードがテーマのアルバムなのに、牧歌的とも云える、非常に野卑た男くさい歌で、本歌が安土桃山期の堺の歌人のものでもあるせいか、この歌のPANTAは堺から粗末なオンボロジャンクでシャムやらルソンへ向かおうとする安土桃山期の陽気で荒くれた海の民という印象をもつ。

この前の曲が「マラッカ」。「アラビアの原油をたらふくつめ込んだ日本行きの20万トンタンカーがマラッカ海峡を渡る」という歌。このふたつの交差が、さながら、日本行きの近代的な巨大タンカーと日本発のPANTAを船長にした時代遅れの小さな朱印船が、回廊のような細いマラッカ海峡ですれ違う、というイメージが広がって面白い。

まったくの蛇足であるが「つれなのふりや」を参考にして長淵剛は「Captain of the ship」を作ったのではなかろうかと私は思っているが、実際はどうなのだろうか。まあ、「つれなのふりや」はレゲエの陽気なリズムが全体の重さを救っていて、ポップスのとして楽しめる作品にもなっており、「Captain of the ship」の怪作ぶりとは良くも悪くも一線を画しているわけで、まったく一緒ということはまったくないのだが、どうも似通った着想で、ちょっとばかり気になってしまう。ぜひとも聞き比べて欲しい2つの作品である。