大塚英志+東浩紀 「リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるの

 対談のつもりが糾弾されたでござるの巻、という一冊。
 ふたりのオタク評論家が、現代を、オタクを語るというテーマなのだろうけれども、プロレスマニアでもある大塚英志は多分、ここで対談という名の言葉のプロレスを仕掛けるつもりだったんだろうな――彼って、相手を挑発するような確信犯的な言い方ってよくするしね。それぞれのイズムとイズムのぶつかり合いによる一回性のレッスルファンタジー? みたいなそういうのをもとめていたんじゃないかなーと。ってまぁ、私もプロレスよく知らないんですが。
 それに対する東浩紀は、大塚英志の仕掛けた技をきちんと受けてあげないし、もちろん自分からしかけもしない。基本「ですよねー」と話半分で大塚英志に相槌だけ打って、話のつながりの一切ない自分のことを話したりしてる、まるで主婦のおしゃべりのような東浩紀。これって対談として記録する意味あるのかと、前半部分はさすがの私も疑問を抱きかねなかった。
 そんな、ずっとすれ違いで肩透かし、ロープに振ったのにこっちに戻ってきてくれない、みたいなじれったさの果てに、後半部では、ついに大塚英志がガチンコを仕掛ける。相手のために言わずにおいていた人格批判すれすれ、相手の退路を断つような発言をあえてしだす大塚英志、それに東浩紀は吃驚おろおろ、最後はほとんど涙目になって泣き言を言いだすのだけれども、しかしここの、煎じ詰めれば「僕だって頑張ってるんだ、そんなにいじめないでよ」といった類のおよそ評論家と思えないような言葉には、彼が頭でこねくりだした能書きのすべてを薙ぎ払うリアルが立ちこめている。彼の周りを取り囲む空疎な理屈――ポストモダンがどうちゃらというしゃらくさいアレはただの自己弁護にしか私は感じ取れなかった――がびりりと破れて、どろどろとした生身が溢れ出しているのだ。
 彼の脆弱な理論、それは彼が自分を保つために必要なせいいっぱいでもあるのだな、と。彼の考えに共感はしないけれども、そうせざるを得ない逼迫した何かを理屈を越えた所で私はそこに感じた。
 ただ読み終えて感じるに、きもくて冴えないオタクであることに腹をくくって衆目に晒している大塚英志とそんな自分にまだ言い訳してええかっこしている東浩紀ではそもそも同じ土俵で話はできないんじゃないかな、とも思った。東っち、あとがきで「なんでこんなに怒られたのかわからない(意訳)」的なこというてるし。
 はからずも大塚の反則ぎりぎりの言葉の応酬によって漏れでた彼のどろどろと渦巻く生身――それを凝視し自らの言葉とし衆目に晒すことがきっと彼の飛躍の鍵なんだろうけれども――なんでこんな本が売れるのかさっぱりわからないとかサイトで言っているようだし、そこは難しい所か。
 もっと自分を曝け出せばいいのになぁ、東浩紀は。そうすればもう一段階上の気持ち悪くって面白いオタクになれるのに。「傍観者でいたい」なんていつまでも子供みたいなこといってないでさ。
 大塚英志の、今でもワンフェスで必死にフィギュア買い漁るような――しかもそれでいてまったく恥じないオタクっぷりをもっと学んでいただきたいぞ、と。