水谷麻里「春休み」

 歌や芝居というのは、何かに突き動かされるような強い衝動を持っている人でなければ続かないものなのだろうなと、最近しみじみ感じる。
 もし、かつての少年・少女がアイドルに求めた「ごく平凡な普通の女の子や男の子」が本当に芸能界に足を踏み入れてしまったとしたら、それはとても不幸なことなのだろう。

 少し可愛いだけの、取り立ててなにもない少女だったアイドル・水谷麻里を今、覚えている人はそうはいないはずだ。
 八〇年代のアイドル・ヒットファクトリー、サンミュージックの一押しアイドルとして八六年の春にデビュー。二年目の八七年にかけてベストテンシングルを四枚生み出したけれども認知度はアイドルファン止まり。さてこれからどう展開するかと周囲が呻吟しはじめる三年目に入る直前、八八年春に、さりげなく芸能界を引退した。そのラストシングルがこの「春休み」だ。
 作詞はサエキけんぞう、作曲は担当ディレクターの川原伸司の変名、平井夏美。事務所のプッシュから外れて、おそらくレコード会社的にも契約消化のシングルだったのだろう。売上も認知度もまったくないけれども、なんだか愛がある。おそらくディレクターからの最後の労いの一曲なのだろう。
 「ばいばい 春休み」
 暢気に片手で手を振るような仕草で、再び訪れることのない短い季節が遠のいていく。
 一年目の松本隆筒美京平コンピの鉄壁のアイドル歌謡でなく、二年目の「バカバカバカンス」だとか「ポキチペキチパキチ」とかわけのわからないことを歌う、ピンクレディー小泉今日子ラインのビクターおふざけアイドル路線でもない、どこかすっとぼけてファニーな彼女の魅力が、はじめてやさしい歌の形で結晶しているのだ。ふわふわと心浮き立ち、ぽかぽかと暖かく、それでいてなんだか胸が苦しくなるような切なさがつまっている。
 何に秀でたわけではないけれども、この「春休み」を歌った、それだけでアイドル・水谷麻里の存在は意味があったことなんじゃないかな。きっと彼女にとって二年の芸能活動は、心落ち着かずに浮き足立ったまま気がついたら終わってしまった、ほんの短い春休みだったのだろう。
 アウトロにはデビュー曲の「21世紀まで愛して」がさりげなく配されている。21世紀まで愛されるようなアイドルにはなれなかったけれども、それが平凡な少女にとっては一番の幸いなのだ。
 桜田淳子松田聖子岡田有希子酒井法子と同事務所所属のアイドルがことごとく味わう悲惨な形での「アイドル」の終焉、それは彼女にだけ訪れなかった。90年、彼女は漫画家・江口寿史と結婚。そして長い日常を生きるのであった。