岡田有希子  「くちびるNetwork」

 86年1月、「カネボウ」春のキャンペーンソングとしてリリースされた曲。チャート1位を獲得し、彼女の最大のヒットになった。そしてこの年の4月に彼女は自殺し、ラストシングルともなった。
 80年代当時の季節ごとの化粧品のキャンペーンソングといえばあらゆるコマーシャルの頂点、広告代理店の総力戦であり、そのキャンペーンソング・ガールというのはたとえそれがワンシーズンのみだったとしても、時代の寵姫といえた。では、はたしてその華やかな戦場に漕ぎ出す胆力が岡田有希子陣営にあったのか、というと――本人のまもなくの自裁を含めて、それはまったくなかったのだろう。はっきり言ってこの曲は駄曲だ。
 作詞は松田聖子、作曲は坂本龍一がそれぞれ担当しているのだが、何故このふたりでなければならないのか、作品を聞いても、ネームバリュー以外の意味は一切見いだせない。松田聖子の詞はあまりにも直接的過ぎてまったくふくらみに乏しい(――というか素人同然だ)し、坂本龍一もアイドルポップスを「お仕事」でこなしているだけでパッションが一切感じられない(――彼の一番魅力的でかついけないところは、つまんないと思った仕事は心底適当にすませてしまう所だと思う。駄作の時は吃驚するほど駄作なのだ、彼って)。
 ――出産休業中の松田聖子に詞を書いてもらって坂本龍一に曲を作ってもらう。それを今度の化粧品のキャンペーンソングとして大量オンエアする。話題性充分。これは大ヒット間違いなし――
 こんな企画会議上の見え透いた計算が滲み出るだけで、岡田有希子の歌手としての魅力があらわれない。「Summer Beach」の十代の自然な伸びやかさや、「Love Fair」の歌唱テクニック、「哀しい予感」の涙混じりの情感と比べるのも虚しいほどになにもない。この曲において彼女は松田聖子の物真似を無理強いさせられ、結果松田聖子の幻影に押しつぶされているだけだ。
 岡田有希子担当のディレクター渡辺有三は、このとき、功に焦りすぎたのではなかろうか。
 80年代のキャニオンレコードにおいて、様々な女性歌手を担当しスタ―ダムにのしあげた彼だが、中島みゆき尾崎亜美といった女性アーティストはともかく、女性アイドルにおいては常に苦闘を強いられていたといっていい。彼担当の女性アイドルは、いい作品を歌い、それなりに人気を獲得していくのだが今一歩、トップは取れないのだ。
 評論家筋ではポスト百恵の呼び声高かった78年の金井夕子は、評判とはうらはらにいっさいのヒットをもぎ取れなかったし、80年デビューの岩崎良美も、デビュー時点では超大型新人アイドルの呼び声高かったが、同期の松田聖子の爆発的な人気に一気に霞んでゆく。82年の堀ちえみも安定した人気は得たが、社会現象ともなった同期の中森明菜小泉今日子の躍進に比べるといささか物足りない形でアイドル歌手としての人気は終息していく。
 84年の岡田有希子もそうなろうとしていた。デビュー期こそ大々的に売り出しそれなりに安定した人気を獲得したが、トップに立てない。圧倒的な人気ではなくそこそこ名の知られたアイドルのひとりにでしかない。同期の菊池桃子にレコードセールスでは大きく水を開けられ、しかも翌年デビューしすぐさま大きなセールスをたたき出した斉藤由貴中山美穂、おにゃん子クラブ陣営などの登場によって存在感は徐々に霞んでいきはじめた。気がついたらいつものように劣勢に立たされつつあった。
 「毎度毎度失敗してたまるか」
 岡田有希子という歌手のキャラクターを越えた所で彼がリベンジに燃えたとしてもなんら不思議ではない。それは気持ちとしてはわかるのだけれども出来上がった曲を聞くと、やはり無理のある企画だったのだなとおもわざるをえない。
 そもそもそういった企画ありきの形に岡田有希子というアーティストは不向きだったのかもしれない。20万枚以上を売り上げて、彼女のシングルにおいてはダントツのセールスとなったが、この曲は決して岡田有希子の代表曲とはなりえてない。様々な意味で、勝負してはならなかった――作品としても、また時期としても、もちろんアーティストとしても――勝負曲という印象が強い。
 ちなみにその後の渡辺有三工藤静香光GENJIとふた組のアイドルを担当する。そこでようやく「トップアイドル」を生み出すことに成功するのであるが、そこにはおそらく「くちびる〜」の失敗も反面教師的に活かされているのだろう。