明菜とセックスとポルノグラフ
中森明菜の好きなところをあげたらきりがないけれども、そのひとつに、セックスのある恋愛を自然に歌にしているところ、ってのがわたしにはある。
「好きな男とするセックスはたまらなくいいものだ」
これって女性にとっては当たり前すぎる事実だけれども、今の社会のシステムが「女性は男性に比べて性欲が薄い」っていうことにしているせいか、これを自然に表現している歌手っていうのは、実はほとんどいないんじゃないかな。
振り返って考えてみれば聖子も百恵もみゆきもユーミンも、優れた恋愛風景を歌っているけれども、それらのほとんどが駆け引きという名のパワーゲームってのが非常に多い。んで、そこから解脱すると「母性」なったりね。
恋が愛になって、少女が母になる。それは当たり前すぎる流れなんだけれども、どうもその過程に絶対としてあるはずの「セックス」っていうのは、正面きって表現するのはどうも難しいみたい。
もちろん明菜もそういった男女のイニシアチブ獲得合戦的な歌も歌っているんだけれども、その一方で、きちんと性欲も歌にしているように私には見えるのね。
直截的な世界で言ったら『Femme Fatale』『VAMP』とか。あれらのアルバムの詞の世界なんて比喩でもなんでもなくもうセックスの情景そのもののだし。明菜の歌唱もあるいは吐息まじりに、あるいは咆哮のように、と、そのもの。
隠喩としてなら「BLONDE」とか「TATTOO」とか、それこそ山ほど。猛る血に任せた「Fire Starter」もあれば、駆け引き上手の「薔薇一夜」、「雨の日は人魚」ではしっとりとストロークの長いセックス描写も。
――って、こういう歌をおとな(男)が明菜に歌わせているだけなら、多分きっと猥褻で、下卑た歌になるのだろうけれども、決してそうはなっていない。
明菜は極めて主体的であり、明菜の声はしっとりと、愛にしたたっている。だから、エロティックだけれども、絶対卑猥にはならない。むしろ時には高貴で崇高にすら私には聞こえる。
みゆきやユーミンや百恵(――というより阿木燿子)や聖子(――松本隆)が、あえて性欲を作品世界に持ちこまないのは、女性のセックスが商品になるとき、ポルノとなってしまうこと、
そしてポルノは、既存の、つまりは男性原理的な社会の支配構造の雛型であり、再生産にすぎないことを、意識か無意識かわからないけれども、知っていたからなんじゃないかなと、私は思っている。
それはまあ、非常に現代的な課題だとは思うのだけれども、そこを明菜は一足飛びに、男女ともに楽しめる新たなセックスファンタジーを歌で作り出して、ポストモダンしてしまった。
これは実は云うととても凄いことなんじゃなかろうか。
ってまあ、また明菜になるとこまっしゃくれたことを言い出す私なんですが、ともあれ、愛しあう過程として当たり前にセックスをする。そのセックスは心地よく、素晴らしい。これは明菜だけの持ちえている世界なんじゃないかなと私は思っている。
そもそも「愛撫」なんてタイトルをつけて、下世話な印象にならず、しかもヒットさせてしま うのは中森明菜だけだよ。
蛇足。
ここ20数年の、女性の、自らのセックス表現をめぐる試行錯誤。その結果、漫画の世界では、女性のためのポルノグラフとして、レディースコミックやらボーイズラブ(やおい)やらティーンラブやらが生まれたわけで、この明菜の展開はけっして孤立無援のものではないんじゃないかなと、つけくわえとく。
ただまあ、漫画のああいったのは、男性原理のネガでしかないのが多くて、少々閉口気味です、私は。