平岡正明 「中森明菜 歌謡曲の終幕」

中森明菜 歌謡曲の終幕

中森明菜 歌謡曲の終幕

新左翼系の論客として、あるいはジャズ評論、文学評論で有名な平岡正明氏が、歌謡曲評論にはじめて取り組んだのは、78年刊行の「歌の情勢は素晴らしい」(冬樹社)からだと記憶している。
79年には歌謡曲評論の金字塔となった「山口百恵は菩薩である」を上梓。その後は山口百恵論の続編「菩薩のリタイア」をはじめ「日本の歌が変わる」「歌謡曲見えた」「大歌謡論」「美空ひばりの芸術」「国際艶歌主義」と彼の歌謡評論は続く。
そして、96年に「三波春夫という永久革命」とほぼ同時期に「中森明菜 歌謡曲の終幕」が出版となる。以降平岡氏は歌謡曲評論に関するものを著してはいない。


冒頭に彼は断言する。
中森明菜を葬りさったのはこの日本芸能界のレベルの低さである」
明菜は葬られ、ゆえに歌謡曲は終わった。
つまりは、歌謡曲終焉の地に立つ女王、中森明菜の場所から歌謡曲を振り返る、そういう本であり、歌謡曲に断念した平岡氏の、弔辞である。
「テレビ文化の中に息づく大衆歌謡」として何度目かの黄金期を迎えた歌謡曲、それが成長し爛熟するその過程に、沢田研二山口百恵がピンクレディが郷ひろみが、いた。
そしてそれが、衰退し終幕を迎える、その時に、ひばりが死に、明菜が自殺未遂をはかった。これが、日本の直近の大衆芸能史である。
この一冊でこれを確認すれば、いい。


中森明菜の本ではなく、中森明菜から歌謡曲を見る本――であるから、80年代の中森明菜の作品分析は精査に行うものものの、90年代以降のその後の明菜を平岡氏は「今の中森明菜にはスリルがない」と言下に切り捨て、それ以上は語らない。
おそらく平岡氏は、山口百恵に対して全楽曲をしらみつぶしに聞き込んだようには(――そうやって全曲レビューしているのよ「山口百恵は菩薩である」と「菩薩のリタイア」では)、中森明菜には触れていないのだろう。
その点、彼女の熱心なファン(――もちろんわたしもそのひとりなのだが)にとっては食い足りないという思いが残る本ではある。
とはいえ、この著作以上に中森明菜の楽曲にスリリングに食い込んだ一冊がいまだないというあたり、平岡氏の「日本のメディアの芸能批評はレベルが低すぎる」という、その証左といえるかもしれない。
平岡正明氏といい、近田春夫氏といい、日本で読ませる芸能批評・楽曲批評をコンスタントに書ける作家、批評家、ライターというのは、その多くが外部の、ざっくり云えばそれで飯を食っていない人間である。


それにしても――。
「「あとがき」は必要なかろう。この本は評判になるまい」
このラストメッセージは格好よすぎる。