石原真理子、玉置浩二、結婚

 DV男と暴露本女、夢の共演。
 まだ玉置浩二の奥さんが薬師丸ひろ子だった頃、音楽的にはソニーに移籍して、須藤晃プロデュースのもと、和製ブルーススプリングスティーンみたいになっていた頃、作詞家と作曲家、監督と役者という関係だった久世光彦が自著「人恋しくて」において、彼を「人たらし女たらしの稀代のろくでなし、けれども彼に接した男は全て彼を赦し、彼に接した女は全て彼に抱かれたくなるだろう」――といった(類の)ことをいっていたのだが、その時の彼の一般的なイメージとその評はあまりにも乖離していたので、どうにも私はぴんとこなかった。しかし、今ならわかる。本当にそのとおりなんだな、と。
 ってか、今朝起きて同棲報道で慄いたのに、今帰ってきたら、もう結婚しているよ。エンターテイメント性ありすぎだろ、おい。
 墜ちた星同士、なんて言い方してしまったらものすごくロマンチック、DV男との共依存といってしまったら、身も蓋もない。
 でもね、本気で愛しあう男女ってのは、少なからずともこのふたりのような、のっぴきならない部分、お互いが浸食しあって、愛憎の腑分けが不可能なくらいに縺れあい絡み合い、お互いがそれぞれの存在証明にまでなってしまう部分ってのが、あると思うんだよね。
 それを汚いとか愚かだと、私は思わない。とても人臭いなぁ、と思う。それを億面なくさらけ出す彼らは、ある意味とても正直なのだな、と感じる。
 んじゃ、私がそういう恋愛したいかとなると真っ平ごめんなんですが。でもね、誰にでも、その陥穽にはまる可能性は、あると思うんだよね。失われた自らの半身がそこにある、と、思ったときに、冷静になれる人はいないはず。
 理屈じゃないのだ。それは信仰なのだ。
 もしふたりがまた別れたとしても、結局はお互いがお互いにとって唯一の人であることは永遠に変わらないんじゃないかな、と思う。それは業なのだ。
 そして、業が深い人ほど、表現者として優れているのだ。だから玉置浩二が役者として歌手としてメロディーメーカーとして優れていることとこの件は、まったくもってリンクしているので、ファンは諦めるしかないのである。嗚呼。