久米宏の話

 彼の、いちいちもっともらしいことを語りつつも、「でもそんなことはどうでもいいんですけれどもね」と一瞬で全てをちゃぶ台がえししてしまいそうな姿勢、色んなことに本気で興味を持ち首を突っ込みつつも、一方で本当はそれらが平等に無価値であるという態度を崩さない、それがいかにも「本来の」ジャーナリズムらしく、私は好感を覚える。
 百恵ちゃんの尻を触るのも、黒柳徹子横山やすしの暴走を止めるのも、そのへんを歩いている人にインタビューするのも、政治家やスポーツ選手と対談するのも、全て平等に心から楽しく心からどうでもいい。どこどこで紛争がおこっているとか、こんな法律が国会で審議されているとかそういう深刻な話題も、八神純子がちょっと太ったとかどうでもよさげな話題も時間の流れとともに綺麗に全て流れさって、ほとんどの人が忘れてしまうという意味では全て等価、だから、なんでもかんでも出来うる限り今を知り、今を楽しんでしまおう。
 マスメディアなんてのはご立派だと思うのが勘違いで、本当はただの無邪気で無責任な知りたがりなのだ。それを彼は体現している。
 この陽気なニヒリズムとでもいうべき姿勢は、しかし、なかなか出来そうでいて、出来ない。久米宏の成功とともに、数々のアナウンサーが久米宏を目指したけれども、ゴルフしたいとか、銀座のおねぇちゃんの乳をもみしだきたいとか、あるいは後々は政治家になって理想の世界を創造するぞ(笑)とか、世の矛盾を糾弾するぞ、とか、当人の余計な自意識が滲み出て、なんだか決まらない。権力志向が強く、いちいちに「意味」を付与させようとして、彼ほど軽妙洒脱で無責任でいられないのだ。まあ、人というのは、大抵ある種の理念であるとか欲望に固執してそれが正義だと信じて行動してしまうものだがら、仕方ないことなのかもしれないだけれどね。


 ――と、いうわけで、マスメディアにおいてもっともマスメディアらしい久米宏は「ニュースステーション」という、テレビという箱の中で治外法権といってもいいような場を築きあげることに成功したわけだけれども、はたして「ニュースステーション」という場を解体し、現在のテレビの現場に降り立った時、彼は古臭い化石になってしまったのかもしれない。「Nステ」以降、何度も立ち上がりながらもいまいち成功しない久米宏の新番組の第三弾「クメピポ」を見てみた。
 様々な関係各所に気をつかい、叩かれたり騒がれたりしないようにそろりそろり作りつつ、一方でそれでも無理にでも盛り上げようという妙な気概が出演者をはじめまわりにただようという、実に今のテレビ番組の作りらしい部分がことごとく彼の持ち味とバッドチューニングしているところが、なんだか悲しい。
 彼が面白くない。それは翻っていえば、テレビというマスメディアはマスメディアらしくなくなってしまったということでもある。
 彼の盟友的存在を想起してみると、黒柳徹子は、「徹子の部屋」というテレビ内治外法権での活動がメインだし、大橋巨泉は、セミ・リタイア以降時々ゲストに出てきては横柄な顔をするおじいちゃんとという役割、横山やすしは自滅し、萩本欽一はテレビから距離を取り欽ちゃん劇団と趣味の野球が中心だ。
 メディアの意味が変わり彼らが勇退したのと同じように、もう久米宏はメディアでの役割を果たしてしまったのかなと思ったりもするが、テレビという場を離れたとき、やはり彼は面白いのだ。


 TBSラジオ土曜日の「久米宏ラジオなんですけど」。一定の見識を持ちつつもベースはいい加減でいいっぱなしで適当で調子がいいだけで、何より本人が楽しんでいるという姿勢に、こちらも楽しくなってしまう。
 もちろん滑舌や抑揚も抜群で千変万化しながらも聞きやすく、この人はアナウンサーとしても最高クラスのプロなのだなと、改めて感心してしまう。
 彼ってもともと役者兼アナウンサーのようなところもあるんだよな。「今はニュースキャスターの演技しています」「今は歌番組の司会の演技しています」っという姿勢。演じているだけなので、舞台が跳ねたら、さっき言ったことなどすべて忘れてけろりとしている。
 ――というわけで、つまりは今度の土曜の「久米宏 ラジオなんですけど」は黒柳徹子スペシャルで、2時間久米×黒柳で押し通して、さらに俊ちゃんも飛び入りでやってくるよ、ネットでも聞けるし、過去の回もダイジェストで聞けるよ、という。興味あったら聴いてみてみて。そんだけなのである。

http://www.tbs.co.jp/radio/kume954/