山口百恵「イミテーション・ゴールド」

 毎年5〜7月リリースのシングルは勝負曲と位置付けていたのか、アップテンポでハードな曲の並ぶ山口百恵。「ひと夏の経験」→「夏ひらく青春」→「横須賀ストーリー」ときて、77年7月にリリースしたのが「イミテーション・ゴールド」(――このあと夏の勝負シングルは「プレイバックPart2」→「愛の嵐」→「ロックンロール・ウィドウ」と続く。)制作陣は、作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童、編曲・萩田光雄の毎度お馴染みゴールデントリオ。
 詞は阿木お得意の「好きな男の腕の中でも、違う男の夢をみる(@「魅せられて」)」系の元祖といってもいいかも。先ほどまで情事に耽っていた目の前にいる「今年の人」と、かつて愛した「去年の人」とをひとつひとつ引き比べ、最後に一言「ごめんね」――わたしにとってあなたは「イミテーション・ゴールド」贋者だったと裁定する、という残酷な歌なのだけれども、この歌を阿木は「横須賀ストーリー」の続編として作ったのではないかな、とわたしは推測する。歌詞にある「去年の人」とは、ちょうど一年前のシングル「横須賀ストーリー」で「これっきりですか」と何度も心のなかで問い掛けた男なのかな、と。
 千家和也の描く小理屈を並べ立てるだけで本当の意味で恋をし情事に耽ることのなかった世界からついに殻を破り、阿木燿子の手によってはじめて味わった性愛――それが「横須賀ストーリー」の世界だったわけだけれども、「これっきり」という言葉に象徴されるようにそれは破局がまもなくであろうことが既に決定づけられたものでもあった。だからこそヒロインは、ただひたすらに波のように抱かれるしかなかったのだが、そのセカンドステージが、この曲になるのかな、と。だからなのだろう、この曲は、情事のあとシャワーからあがったところからはじまる。既にヒロインにとってセックスは日常に馴染んでいるのだ。
 「流れる雲も季節の色だ」などと「今年の人」が投げかけた気障な言葉にヒロインが眩暈を感じるこれも「横須賀ストーリー」のリンクと見てとれるだろう。
 「去年の人」である「横須賀ストーリー」の男は、ヒロインが話し掛けても何も答えず心を勝手に遠くへ旅立たせてしまうような無口で不器用な、しかし濃密な気配のある男だった。しかし目の前にいる「今年の人」はそれとは程遠い。身軽で洗練されていてフェミニンでやさしい。「なんて違うのだろう」だからヒロインは思わず軽い眩暈を感じてしまい、だから思わず先ほどの情事の、癖の、汗の、ほくろの、利き腕の、愛の違いまでも比べてしまうのだ。
 小道具で「横須賀ストーリー」では「ミルクティー」、「イミテーション・ゴールド」では「牛乳」と飲み物が出てくるのも、これも無意識か意識的なのか、ひとつのリンクといえる。去年の人と共に飲んだミルクティーは胸まで焼けたが、今年の人の牛乳は「命そのまま飲み干したけど」と、ヒロインは言葉を濁らせる。
 特に「イミテーション・ゴールド」のここはエロティックな隠喩といってもいい。先ほどまで情事に耽っていたふたり、男の差し出すミルクを飲む女、それを「命そのまま飲み干す」と表現しているのだ。ミルクが命であるという、まあ、いい年齢の大人ならなにをいわんとしているかわかるよね。――ここの部分に象徴されているように、さりげない日常的な情景描写に見えて、大人なら直感で「わかる」セックスの濃密な気配で満ち満ちているのがこの詩の凄いところのひとつでもあると思う。
 そしてこの歌のさらに面白いところは、「今年の人」を「ごめんね」といいながらも、最終的に拒絶してしていないところにある。「去年の人を忘れるその日まで、そのやさしさで待ってて欲しい」と留保しているのだ(――とはいえ、待ってて欲しいといわれるがままに待っていたやさしい男は翌年「プレイバックpart2」では「坊や」などとなじられるのだが)。山口百恵は冷徹に観察しながらしかし最終局面においては男を世間を、突き放さない拒否しない弾劾しない。「プレイバック」でも結局「わたしやっぱり帰るわね」と男の元に戻るし、「絶体絶命」にしても「やってられないわ」と吐き捨てながらも、結局相手のために身を引いているし、「ロックンロール・ウィドウ」だってロック狂いの旦那持ちの私は未亡人と嘯きながら再婚しようとはしない。
 この距離感が、山口百恵がいまだ伝説のままでいられるポイントなのかな、と思ったりする。山口百恵はぎりぎりのところまでアジテートしながら最終的には保守的価値観に回帰し、ポジション的にはきちんと「おっかさん」に回収されていくのだ(――ここがあっけなく一線踏み越えて破滅と狂気と頽廃に突き進む明菜との大きな違いかな、というのは蛇足)。
 また、ここで「今年の人」を「やさしさ」の一言で表しているも絶妙だ。
 70年代中頃、学生運動の挫折後の内向していく当時の若者達をさして「やさしさの世代」とマスコミは呼ぶようになっていった(――この世代がいわゆるポスト団塊のオタク第一世代になっていき、以降日本のオタクカルチャーが一気に花開いていくのだが、それは別の話)。「やさしさ」というのは時代の若者のキーワードでもあった。つまりここにある「今年の人」というのは、もちろん詞という虚構のなかにいる一登場人物でもあり、「今年情事した人」という意味でもあるが、それを越え、ブラウン管のむこう彼女に熱いまなざしを向ける若い男たち全て、という意味とも取れる。そのように時代性に広く敷衍していく可能性があるのだ。まさしく一億人の娼婦であり時代の巫女であった当時の山口百恵の、時代につきたてた名曲のひとつといえるだろう。