江森備「ブルークリスタル」を読み終わった。

ブルークリスタル 公爵ドラキュラ 下巻 (fukkan.com)

ブルークリスタル 公爵ドラキュラ 下巻 (fukkan.com)

 中世ルーマニアから帰ってきました。面白かったよっ。
 途中の感想で、あんまりJUNEじゃないなぁといってたけど、嘘嘘。前半が歴史・戦記モノで、後半がJUNEでした。というか、後半に関してはキャラクター小説といっていいかも。今までの江森作品のなかでいちばんキャラクターに親しみを覚えるんじゃないかなぁ。
 孔明=ナリスキャラの、陰険美形のフェロモンで男を(色んな意味で)嵌めていくウラド公、これまたいつもの周瑜系の、きもいぐらいいい男なメフメト2世、といった物語の中心にいるキャラをはじめ、マッチョな男装の女武人のスイトカちゃんに、凛々しい悲劇のアナ公妃、口の悪く気のいい(――っていうかとってもイシュトんな)盗賊のマノレ、嫉妬深いおねぇMANSなオクタヴィアン、KYで心のあったかいおっかさんなロタール夫人、と脇キャラが魅力的。特に今回は女性キャラの存在が光っているなあ。それに比べると男性陣はちょっと霞むかな。男は陰険だったり下劣だったり子供っぽかったりお女々だったりするのに、女はさっぱりしてて気風がいいんだもの。
 あとハッピーエンドで終わったのもよかったな。どエスでど変態な作者・江森備(――誉めてるんですよ)の一番の生贄である主人公にあって、今回は非業の死エンドでなく、小さな幸せを手に入れつつ晩年を迎えたのがよかったなぁ。と。
 ただ物語全体を冷徹に見渡した時に、「天の華・地の風」「王の眼」程の完成度を有したかというと、そこまではちょっと届いてなかったような感じもする。
 この人は何者であったのか、この物語はどういう物語なのか、作者はなにを言わんとしているのか。前二つの作品っていうのはそのあたりが明確に見えていた。男性原理は醜い、であるとか、世は全て因果応報である、とか、キャリアウーマンは大変、だとか、女として愛されたいのに女に見られたくない矛盾、とか。
 一貫した物語の意志によってすべてが統御され、すべての人物や出来事がおさまるべき所におさまっていく、見事に織り上げられた織物のような物語の快感、そういうのが今回にはちょっと感じられなかった。どこかこの物語全体が「歪」なのだ。
 それはおそらく作者に二つの強い意志が働いたからなのかなぁ、という感じがする。
 ひとつは、この物語を今までの物語のようでなく、ハッピーエンドにしたいという意志。そしてもうひとつは、永遠の恋人でありながらも憎み殺さずにはいられない男―――「天華」における周瑜、「王の眼」におけるウシル、今回の作品ではメフメト、と和解し愛をかわしたいという意志。
 つまり作者・江森備は、今まで赦せなかった社会を、男を、許そうとしているのだ。
 下巻は、その作者の意志によって強引に物語が進行していく。本来は世を恨みメフメトを憎み非業の死を遂げるべき主人公ウラドを、いかに生き残らせ、暖かい幸せを手に入れさせ、メフメトとラブラブにさせるか、下巻はそのように物語を強引に展開させるためだけに紙数を使っているといっても過言ではないと思うのだ。
 しかしその下巻の展開は、上巻で展開されるヴァラキア公国を暴力と恐怖で統一させ、15万のオスマントルコの軍勢をゲリラ戦法によってわずか二万弱の手勢で壊滅せしめる――というよくしられた串刺し公ドラキュラとしての彼とまったく齟齬しているといっていい。上巻と下巻でウラドという人物のありようは逆転し、物語の色彩はまったく別のものとなっている。その違和は物語の最後まで解消されることはない。
 そもそもさ、よくわかんないんだよ。
 なんでさ、敬虔なる正教徒であり、トルコに幽閉されていた15歳のときに若きトルコ皇帝メフメトに監禁・強姦されたことを心の傷にもち、三十歳を越えた今でもそのフラッシュバックでうなされるウラド、対トルコ戦で自国を焦土と化させてまでもトルコ軍を粉砕させ、そしてメフメトを自らの手で討ち取る直前まで辿りついたウラド、そんな彼が、なんで下巻でメフメトとラブラブになっているの?意味わかんない。
 上巻最後のほう、対トルコ戦を気迫で勝利したウラドのもとに、メフメトからのお手紙が届くんだけれども、曰く「15年前のあの時レイプしてごめんね。好きすぎて暴走しちゃっただけなんだよ」(意訳)という感じのきもい感じの女々しい手紙が届くんだけれども、これ別に策略でも何でもなく本当のごめんねラブメールで、これになぜかウラドちゃん、ジュンときちゃうっという。わけわかんない。なにやっているのこいつら。
 関係ないけど、後半に色々書かれるメフメト×ウラドは、かなりきもいです。下巻19章の「ひと夏のアバンチュール in シチリア」とか、もうね、なんなの、このラブラブおっさんホモカポーは。頭おかしいんじゃなかろうか。
 ま、とにかく、だ。
 ウラドちゃんはある地点で突然の変心し、メフメトに心を赦すようになるのだけれども、これはねー「王の眼」でね、セティを肉奴隷とし何年間も監禁・強姦しまくっていたウシルが、ある日突然「いままでごめんね、本当に好きなのは君だけだぞっ」っていったの、セティがなぜかジュンときちゃうっていう、あのシーンと同じでね、ぜっっっんぜん理解できない。いや、ね。それが女の業なのかな、という感じでわかるっちゃわかるんだけれどもね、もうちょっと言葉で読者に説明してくれ。唐突過ぎる。そんなに簡単にフツーは赦せないだろ。
 てかさー、メフメトの存在が大きくなるとともに、突然霞んでゆくウラドの奥さんの立場って何?イシェルは尼寺で軟禁で話に絡んでこないし、アナ公妃なんてさくっと死んじゃうしさー。もう、どういうことよっっ。つか、この小説一番の好感度キャラである、女武将イシェルの後半のオミットっぷりは、ぜんっっぜん納得いきませんよっっ。
 遠くに幽閉されているイシェルちゃん宛に、同じく幽閉され、しかも半身不随で腕さえ満足にあがらない状態になりながらもなりながらも必死にお手紙書いてるウラドちゃんのいじらしい姿に萌えた俺はどうすればいいんだっつうのっ、まったく。
 上巻までだと読んだ人はみんなこの話をイシェルとウラドの「小国君主夫婦道」小説だと思うのよね。事大主義で尻腰のない自国の貴族やら、ハンガリー・トルコ・ポーランドなどなどの周辺の大国の侵略やら恫喝やら、国内を蚕食する外国商人やら、なにもない自国産業やら、問題ありすぎる小国ヴァラキアを、腹心であり愛する妻であるスイトカ=イシェルとともに必至こいて歩んでいく、そういう話なのかな、と。たら、後半ホモですか、と。や、まあ、ホモでもいいんだけれども、そういう作家だし。
 なんかもう取りとめが全然なくなってしまったので、強引にまとめるけど、この話って「知識も才能もあって男性相手に対等に渡りあえるバリバリのキャリアウーマンに見えるけれども、本当はそんな器じゃなくって、負けん気とプライドと色んなめぐり合わせでやってるだけで、それに仕事ではぶつかり合うマッチョな男の人も本当は好きだったりして、あと田舎でまったりスローライフとかしたくって、そんな自分に素直になった結果、そういう風になりました」話なのかな。と。
 今までの男相手にぎりぎりのところでサバイブし無惨に散っていった江森小説とはちょっと色合いが違うのかなーと、思った。悪くいえばスリルがなくてちょっと馴れ合っている感じ。今回珍しいキャラ小説っぽさも含めて、闘うのでなくそろそろ癒されたいのかなー、江森さんも、と思った。
 それならそれでかまわないので、今度は暗く重く悲惨な設定を使わないでキャラ小説してくれたらいいかも。
 最後にさらに蛇足。江森備栗本薫へのリスペクトはマジパない。多分この小説って色んな意味で良くも悪くも江森版「グインサーガ」なんだと思う。