原田知世「逢えるかもしれない」

 政治家と官僚と労組の食い物にされてとんでもない借金を抱え、結果、87年に国鉄は解体されることになる。顛末から鑑みれば決してめでたいことではないのだが、時ならぬバブル景気に飲みこまれる形で「国鉄からJRへ」のイベントは盛大に執り行われることになった。その「新生JR」のキャンペーンソング「新・鉄道唱歌」として作られたのが、この曲だ。
 作詞は公募で一万通を越える中から選ばれたものを松本隆が補作している。作・編曲は、当時の原田のサウンドプロデュース担当だった後藤次利。総合プロデュースは「いい日旅立ち」→「二億四千万の瞳」と国鉄キャンペーンソングを担当したソニー酒井政利が引き続いて担当している。ちなみになぜか詞の審査委員長はジェームス三木だった。発売に先がけて、原田知世は87年3月31日深夜放送の「サヨナラ国鉄」のスペシャルテレビ番組で、0時またぎの「国鉄最終列車・JR一番列車」(――という特別列車が全国各地で運行された)から降り立ってこの歌を歌唱している。
 作品はざっくり言えば「いい日旅立ち」ふたたびな仕上がり、詞はそれっぽい単語の羅列であまり深い意味はなく、なんとなく「古き良き日本」で「旅情」なイメージが漂えばそれでよし、という感じ。おそらく「時をかける少女」での尾道の古い街並みにしっくり馴染んだ彼女の姿に白羽を立てたのと、ぶっちゃけて言えば、当時のソニーに、原田知世以外にこの企画にコミットできる大衆性があってかつやる気のあるタレントがいなかったというのもあるやもしれない。
 松田聖子は産休中だし、郷ひろみ二谷友里恵との結婚・ニューヨーク移住前夜、シブがき隊はなかばお笑いに片足突っ込んだポジションになっていたし、南野陽子はようやくトップアイドルの仲間入りを果たしたところで、おニャン娘系はフジ・サンケイ色が強くてこういう企画には使えない、レベッカやら美里やらサノモトやらのロック系はドメスティックなこういう企画を受け入れないだろうし。
 んじゃ、これを原田知世が担当してしっくり馴染んだかというと微妙な感じ。後藤次利サウンドプロデューサーに据えた当時の彼女は、いわゆる「時をかける少女」の原田知世――朴訥としてどこか懐かしい雰囲気のある透明な少女から脱皮を図っている最中だった。直近のアルバム「soshite」は多くがオフィスラブを歌ったものだったしね。シングルでも「雨のプラネタリウム」「空に抱かれながら」とベースバキバキのハードなゴツグ流歌謡ロックにクラシックバレエス仕込みのシャープなダンス、というこの時期の原田知世にあってあきらかに異質だし、その後も、この曲のような和でフォーキーな路線は見受けられない。
 原田知世はこの曲に求められるような、万人に愛される国民歌手ではなく、自らとそれを受け入れくれるマニアックな聞き手の為の歌手にと成長する。そのきっかけが「逢えるかもしれない」の次のシングル「彼と彼女のソネット」だった――というのは言わずもがなかな。
 ま、そもそも「新・鉄道唱歌」という当時ですら古臭いこの企画は定着する余地がなかったのかもしれない。「国電」を「E電」と言い替えても馴染まなかったようにね。
 分割民営化後のJRは、すぐさま各社がそれぞれのCFやキャンペーンソング、キャンペーンガールを打ち立てるようになる。キャンペーンガールでいえば、西日本が南野陽子、東日本が後藤久美子、九州が酒井法子、四国が富田靖子、北海道が中嶋朋子、といった按配。お互いがライバル関係でもあるJR各社が共同で大々的なキャンペーンを打つことはない。そういった意味では「逢えるかもしれない」は最初のJRキャンペーンソングというよりもソニー酒井陣営による最後の国鉄キャンペーンソングといったほうがいいのかもしれない。