少女貴族・森茉莉

 由紀夫ちゃんに続いて森茉莉の話。
 父性の不在が三島ちゃんをホモセクシャルにはしらせた。しかし三島ちゃんは、ホモの世界においても、擬似的な父の立ち位置である念兄の立場をとろうとした。だから彼の「父に愛されたい」という欲求は永遠に消化されることはなかった。みずからの美学に殉ずるかのように偽装した自殺は必然といえるものだった――という話をしたと思うけれども、 ――って、ぜんぜん云っていないな、そんな話。まぁ、そういうことだとわたしは思いますよ?

 ――で、お茉莉の話。
 お茉莉で面白いのは、「この世には、父と自分しかいない」という徹底した世界観にあると思う。彼女にとって世界で必要な要素というのは「パパ」(――お茉莉風に言えば「パッパ」)と「わたし」それのみ。
 エッセイを読んでいても、いかに私が父・鴎外に溺愛されていて、わたしも父を愛していたか、という話のオンパレード、時に、三島由紀夫室生犀星なども登場するが、彼らをも、森茉莉は、「父」としてみている。
 小説となると、これまた露骨で、東大教授や小説家など、いわゆる知識人層の年配の美丈夫と、人を誘惑することしか能力のない無知で魅力的な少年を主人公にした、やおい小説の原型のようなもの(「恋人たちの森」「枯葉の寝床」)数編上梓した後に父子相姦をテーマにした一大長編「甘い蜜の部屋」(――主人公の藻羅(モイラ)は「茉莉」のアナグラム)につづくわけで、もうガチでパパ命です。お茉莉さん。
 実際、鴎外というのは、彼の作風やら経歴とはうらはらに徹底的に子煩悩だったようで、四人の子供全員が父の思い出を綴ったエッセイを残しているのだけれども、とはいえ、このお茉莉の世界観というのは、異質。

 お茉莉にはもちろん母も兄弟もいるし、結婚だって二回もしたし(――どちらもあってまに破局したけれどもね)、子供も二人いる(――産んですぐに離婚して夫側に捨てるように預けちゃったけれどもね)。しかし、子供や、かつての夫の話など、父以外の身近な血縁の話などほとんどといっていいほどでてこない(――夫と夫の友人をモチーフにしたやおい小説を書こうとしたというエピソードはその馬鹿馬鹿しさに私は印象深いが、まぁ、少ない)。およそ、森茉莉の舞台において、彼らは脇役。
 森茉莉にとって、人生とは、イコール父・森鴎外との日々、といって過言でない。端的に云えば、森茉莉の人生は、鴎外の亡くなった1922年、お茉莉が19歳だった時にすべてが終わっていて、あとは余生なのである。

 彼女は、54歳の時、鴎外との思い出を綴った「父の帽子」で文壇デビューしている。普通の人間であれば人生においてもっとも充実した時であるはずの20、30、40代が、彼女の場合からっぽである。そのあいだに震災も戦争もあった。二回の離婚もあった。しかし茉莉にとっては、それらは硝子窓の向こうの、とおいどこかの出来事なのである。
 わたしは森茉莉の、この、少女めいた貴族性がとても好きだ。

 飴玉を口に放り込んでは取り出して、また口に含んでを繰り返す子供のようにかつての黄金の日々――父という絶対的な存在にすべてを庇護された甘い蜜の日々を、ためすすがめつする。森茉莉は、とても幸せだったんだろうなぁ、と思う。
 例え傍目から見て、悲しい人だろうとも、本人はいつも幻の薔薇と愛に囲まれた幸福な日々だったのだろうなぁ、と私は思うのだ。

 ――と、いうことで、三島由紀夫ちゃんのパパが鴎外先生だったら、子供の頃に「こぅちゃんは最高」って、思いっきり溺愛され、パパ成分を充分補充して、エリートであり文学者という二足のわらじをつつがなくこなしたかもよ? で、パパ大好きっていう、「枯葉の寝床」みたいなやおい小説みたいなのをいっぱい残したかもよ? って、やっぱそこはホモなん?  ――と、三島オチで今日は落としておく。