11/30の日記で、中川右介著「松田聖子中森明菜」 に関してぶつぶつ言ったけれども、その続き。
 結局アイドル論って、90年代初頭で提示された部分で踏みとどまっているんじゃないかなぁ、と感じる。この本にしても、そうだし、今年の春に放送されたNHKスペシャル松田聖子特集にしても、そう。
 凡庸な家庭を築くためにアイドルという仕事を袖にした山口百恵。恋も栄誉も金も、欲しいものをすべて手に入れるために家庭を袖にした、いつまでもアイドルでいつづける挑戦者・松田聖子。百恵のエピゴーネンたろうとして、しかし最後の最後で家庭に袖にされた不幸なジプシーアイドル・中森明菜
 家庭を選んだ百恵。仕事を選んだ聖子。家庭にも仕事にも選ばれなかった明菜。――という、こういういかにも女性論的な三者のキャラが骨格としてあって、それに当時の楽曲の解説やら芸能スキャンダルやらでそれぞれを肉付けしていく、というね。こういう形。
 まぁ、非常に安定していて語りやすいっちゃそうなんだけれども、このスキーム、もういささか古すぎやしませんかね、と。この枠組みで語ると、百恵はともかく、90年代以降のその後も歌いつづける聖子と明菜の、その意味づけというのがまったく抜け落ちてしまう。
 そもそも明菜は86年以降、聖子は92年以降セルフプロデュースに踏み込むわけで、その点についてまったく触れないというのは表現者としての彼女達に対して失礼にあたるのでは、とすら私は感じる。
 確かに、実質アイドル文化・歌謡曲文化は平成を迎えると同時に瓦解していくわけで、また聖子・明菜ともにその時代の潮流と共にマスへの影響力を失い、迷走するようになるわけで、語りにくいというのは、あるんだろうな。
 けれども、彼女達の迷走が語るべき価値がないとは私はちっとも思わない。むしろ迷走であるがゆえに意味があるとすら、私は思っている。 80年代の象徴たるふたりの90年代の迷走は、まさしくバブル期以降日本の、失われた10年の迷走とまったくパラレルである、と。

 例えば、デビューから現在に至るまでの松田聖子の歴史を紐解きながら、「自由を選んだ女性達の、女性に自由を選ばせた男性達の、辿りついた虚ろで華やかで孤独で幼稚な都市国家、日本」という感じの、かつての女性論へ自己批判的な総括をすることなど容易なんじゃないかなと、私は思うけれども、どうなんざんしょ、フェミニズムの人たち。

 ま、つまりは、90年代も遠くになった今、80年代アイドルを語るなら、90年代も射程に入れて欲しいぞ、と。
 あと「中森明菜=80年代の山口百恵」って枠組みだけで語るのは、もう飽きた。
 中森明菜が名実ともに山口百恵の影響下にあったのは、せいぜい84年の「十戒」まででしょ。自己プロデュースを開始して以降現在までの明菜を、強いて誰かに例えるとするなら沢田研二に一番近い。
 セルフプロデュース。ほとんどコスプレな過激な衣装。三分間で異世界を作る。歌を離れると気さくで照れ屋。伝わってくる私生活は地味で質素。お笑い好きでサービス過剰。馬鹿正直でがんこ。マスコミ嫌い。意に添わぬスキャンダルをたびたびくらう。テレビ番組でしか芸能に触れていない人からすれば既に過去の人だが、その後もアーティストとして着実に変化・進化。声質・容姿ともにデビュー期・全盛期・現在と大きく変貌している。などなど。
 沢田研二中森明菜の共通項を見つけるのは、容易い。
 まぁ、そういった似たもの探しがどれだけ有効かは知らないけれども、「明菜≒百恵」説は、きちんとした論拠なく「そういうことになっている」感じでもう、いいや、と。