復帰しない中森明菜に関しての妄想的考察

 まったく個人的な妄想で申し訳ないのだけれども、中森明菜が歌手として表現したい世界というのは、アルバムで言えば「VAMP」「Resonancia」「Diva」のラインなんじゃないかと私は思っている。歌というよりもサウンドコンシャスな作りで、全体に鳴る音で世界観で表現する、という、
 一方で、中森明菜のファン(――今もファンクラブに入っている濃いタイプから、懐かしいなレベルのふわっとしたファンまで全て含めて)は、どちらかというと彼女に歌謡的なものを求めているような印象が強い。ざっくり言えば、歌詞が立ってて、耳に馴染みやすい、鼻歌にしやすい、テレビから流れて自然と覚えてしまうような歌ね。そういう、明菜の歌を見たい聞きたい。できるならテレビで、しかもすんごい派手な衣装で。っていう。無論、そうした保守的な歌謡曲をかつては歌っていたわけだし、そこにかつての彼女の魅力があったのだろうが、その後も彼女がそこにいるかというとそれは別の話。
 この、中森明菜本人の志向と、周囲とのギャップというのが、02年の「歌姫2」「Resonancia」の連続リリース以降ずっとつきまとっていたような気が、私はする。何かのイベントか番組で「今度はこの曲をカバーしてほしい」というファンの声に「オリジナルは?」と聞き返した明菜の言葉は本心だったように私は感じる。「もうみんな、私の新しいオリジナルはいらないの?」と。振り返ってみると、休業前の08〜09年の異常ともいえるカバーアルバムの乱打は、そうした状況下にあった彼女の悲鳴だったのかもしれない。
 中森明菜が現在、長い沈黙を守っている一方で、夜ヒットDVDなどの過去のアーカイブ化に関して積極的であるのも、そういった事なのではないかと私は邪推している。「昔の私が好きならDVDで昔の私に会いに行けばいいし、他の人の歌った古いお歌が聞きたいならカバーアルバムもういっぱい出したし。今の私のやりたい音楽? 誰もそんなの聞きたくないでしょ」と。
 最近は、各メディアで明菜待望論が語られることが少なくない状況となりつつあるけれども、それが「華やかな歌謡界の王道たる中森明菜」であるかぎり、中森明菜のシンガーとしての真の復活―――セールス的、芸能界的な意味ではなく、中森明菜がいきいきといまの自らを表現するという、表現者としての復活は、難しいのではないかと私は思っている。
 もちろん、この休業の間、明菜になんらかの心境の変化が起き「よし、もう一度、お神輿乗ってみるか」となって、かつての小林幸子の紅白バリの演出で復活、派手な衣装と派手な歌で芸能界のど真ん中に撃ち抜く、ということも全くゼロとはいえないだろうが……ってやっぱないか。
 新曲はインディーズや音楽配信でいい。ライブも小さな箱で充分。自分のペースで自分のやりたい音楽にじっくり取り組める環境をうまく作れたらと、私は思うのだけれども。昔は昔、今は今と割りきってね。
 祭り上げられて再び歌う機会を失った山口百恵と同様(――周囲が自然と忘れてくれたなら、南沙織や西田佐知子、久保田早紀のように、引退後もなんらかのタイミングでさらっと新曲吹き込んだのではと私は思っている)に、中森明菜もまた過去の亡霊に呪縛されているのではなかろうか。