■ いじめが初めての人に教えてあげたいちょっとしたこと 

 ちょっと今日はいつもと違う話。人間関係の暗部「いじめ」の話をしてみようかなと思う。
 新年度ってのは、新しい職場や新しい教室での新しい人間関係の構築をしなければならない時期でもあって、今まさしく「いじめられやしないかな?」ってどきどきしている人も、いるかもしれない。


 「いじめ」について特に私が深い知見があるというわけでもないのだけれども、例えば「そんなものは昔からあった」とか「今の若者は心が弱い」とか石原慎太郎みたいなおじさんが、ごりごりの保守的マチズモで精神論をぶるのは、なんだかなあ、全然解決にならないなぁと、私は感じる。
 とはいえ、いじめ体験者がよく語る「私はこんなひどい目にあわされた」とか、「こんな風に見返してやった」って話も、なんか被害者意識が強くって、あんまり気持ちのいいものでもなくって、妙な距離感を感じるのだ。


 「いじめられる方も問題がある」――たしかにそういう面もあるよな、と思う。
 「いじめる方が悪いに決まっている」――そりゃそうだよな、と思う。
 「いじめを見過ごしているのも加担者のひとりだ」――そういう言い方もできるよなぁ、と、思う。
 「いじめてるつもりはなかった。ちょっとした悪ふざけのつもりだった」――そういう時もあるよなぁ。え、そんなつもりじゃなかったのに、みたいな。
 「嘘だろ。そんなわけないじゃん」――たしかに、あからさまな言い逃れっていうのもあるよなぁ。
 「いじめは昔からあった」――まぁ、そうだよな。
 「でもこんな事件にまでならなかった」――そうかもしれないよなぁ。
 うん、それぞれの意見は、ある面を言い表しているのだろうけれども、なんだかもどかしいのだ。


 「いじめは人間関係の病気」なんだと私は思っている。
 病気。風邪とか頭痛とか虫歯とか、そういう私達が普段かかる病気。でも、ひどい風邪でもこじらせると命を落とすように、些細な偏頭痛が死病のシグナルだったりするように、油断すると死に到るかもしれない病気。
 だからまず第一に、それは決して恥ずかしいことじゃないと、人が集まる場所ならどこでも誰でもかかる可能性はあるのだと、患者もそれを見守る周囲も、そういう意識を持つのが大事なんじゃないかなと思うし、「自分が全部悪い」と変に卑屈になったり、あるいは「私は全然悪くないのに」と被害者意識を高める必要もないと思うのだ。
 風邪にかかるのに色んなパターンがあるのと同じように、いじめにあうのも、色んなパターンがある。劣悪な環境にいてまったくかからない時もあれば、隣でゴホンとしただけでかかってしまう時もある。一概にこれのみが原因と決めてかかるのは早計だし、原因探しをして攻撃対象を見つけるよりもまず、適切な対処で治すのが、第一。
 それを「風邪は気合で治せ」みたいなマチズモで叱咤などはただのいやがらせで、なにも意味はなさないと思うのだ。今、結核天然痘で死亡する患者はいないけれども昔は死病であったように、もしかしたら「いじめ」は昔と比べると威力を増したのかもしれないのだから。


 それに対処法だって簡単なもので、人間関係の病気なのだから、どんなに重篤な状態になっても全部の人間関係をリセットしてしまえば、それで完治してしまう。
 単純に学校も会社も、やめてしまえばいいのだ。なにちょっと収入がなくなるなんて、大したことでもない。学校なんてなにをかいはんや、転校でもなんでもすればいい。高校なら単位制の学校とか、夜間部、通信制、いくらでもある。いくらでもリカバー可能だ。
 「心が弱い」いう人もいるかもしれないけれども、命あっての物種。自殺したいとか、誰かを殺したいとか、そういう黒い欲望を募らせて人間が腐っていくなら、スパっとリセットが絶対いいにきまっている。自分の命を捨ててまでして守らなければならない大切なものなんて、愛する人の命以外、この世にはひとつもないんだから。
 世間様とか体面とか、そんなものはいい機会なんだからさっさと捨ててしまえばいい。自分にとってなにが大事なのか、わかるいい機会になるはずだ。


 ただ、もしその症状が軽いのなら、風邪でいえば「体育は見学だけれども学校には出れるかな」くらいの症状なら、急いでリセットせずに、ちょっと頑張ってみるのもいいとおもう。
 愛煙家が気管支炎になりやすいように、酒飲みに肝硬変が多いように、神経質な人が癌にかかりやすいように、病気と同じく「いじめ」にかかりやすい日々の生活習慣や日常の言動や意識というのはあると思うし(――そういう意味ではいじめられている方にも多少なりとも原因はあるとわたしは思う。風邪をひかないため、あるいは早い段階で治すための対処があるのと同じで、「いじめ」にかかりにくい、かかっても速やかに完治できる対処はあるとは思う)それを好機として自分を知り、自分の性質を少しばかりかえるのも、いいかなと私は思うのだ。
 「元気に挨拶をする」とか「普段話さない人に興味を持って話し掛ける」とか、なんでもいいから変えてみるのだ。
 だってさ、ただ逃げるだけってのも、なんか癪じゃん。はい、被害者でしたね、で、終わってもいいけど、それもひとつの経験だと思って、後で振りかえった時に「あの時しんどかったけれども、あの部分について学んだからいいかな」みたいな感じで自分の中で「儲け」の部分も出したいじゃん。あれは無駄じゃなかったな、あの時頑張ったなって、思いたいじゃん。
 もちろん無理に頑張って症状をこじらせてしまったらダメだし、ゆすりたかりや暴力の被害者になっていたら、もうこれは「いじめ」でなく明らかに犯罪の領域なので、回避と告発に向けて可及的速やかに全ての対処を行うべきで、こんな時に「頑張る」のは、42℃の高熱の状態で「体が弱いから風邪に負けるんだ」とかいって寒空で乾布摩擦しているのと同じで、頑張るぶんだけ死に近づくというものだけれども、そうでなく、なんか居心地悪い、軽くいじめられている、馬鹿にされている避けられている空気だ、という段階なら、そうしてみる価値は大いにあると思う。


 ――って、理念ばかりだと上滑りなので、自分の体験を話す。


 小学生時代、わたしは学年一の成績で、明るく友達も多く、級長もこなしクラスをまとめ、教師の覚えのいい、そういう生徒だった。物凄い「いい子」だったのだ。大人の言う事を、言外の意味すら全て汲んでそれに素直に従う、純朴を装った如才ない優等生。はっきり言って調子に乗っていた。
 はたして私は県内の公立中学でなく、通学に一時間をかけて都内の高偏差値の私立中学に通うことになった。わたしは昔と同じようにふるまった。教師の吐く言葉をコピーしたような正論で相手をやりこめる。成績もクラス上位。目立っていてもいた。
 反抗期初期の、しかもこまっしゃくれた、都会のいいとこの中学生にとっては、気分の悪い生徒だったのだろう。気がつくとなんとなく孤立するようになり、なんとなくいじめの対象になっていた。
 今までのセオリーがまったく通じず、一転、私はびくびくおどおどするようになった。こうなると全てが悪いほうに転がっていく。びくびくするのが面白いから余計回りがからかう。いちいちひとつひとつの言質をあげつらう。そうなるとよく知らない有象無象も尻馬に乗って収拾がつかなくなる。
 もう学校なんていきたくない。といっても、暴力とかそう言ったのは、もちろんまったくない。せいぜい、気がつくと椅子がないとか、なんか変な奴が興味本位でからかいに来るとか、「好きな人」でチームを作るとあまりがち、とか。
 それでもこんな辛いのは生まれて初めてだった。うちの実家は決して裕福ではなかったのだが、両親が教育熱心なのとそれに私は応えて、私立に進学することになったのだが、時代がバブル全盛というのもあったろう、着ているものなどの身なりから、その裕福でなさ(――物凄い貧しいというわけでもなかろう)や、それでも通学に一時間もかけて通うという「田舎の苦学生」っぷりをあげつらわれ、それが何よりも私の劣等感を刺激した。
 昼休みが特に辛くて、毎日、クラスメートのまず訪れないだろう、立替寸前の人気のまったくない旧校舎によくもぐりこんだりした。遺書めいたものも書いた。それが半年あるか、ないか。


どうすればいいのか、どうにもならないのか。12歳の私は連日本気になって考えていた。ある日、ふと、気づいた。
 「『いじめる』という行為って、一種のコミュニケーションだよな」
 コミュニケーション。これがその時わたしに浮かんだキーワードだった。
 つまり相手はなにかしら自分に興味があるなり、思うところがあって、コミニュケーションをとろうとしている、しかしそれは私の視点から見た時に相応しい形ではない。だから「いじめ」と映っているのだ、と。だったら私の望むコミュニケーションの形に、組みかえればいいじゃないか――しかしわたしは昔っから小難しい理屈ばかり頭の中でひねくりまわしていたのだな。
 それからわたしは「私をいじめている」クラスメートに対して努めて積極的にアプローチすることにした。びくびくおどおどしない。かといって喧嘩腰にもならない。冷やかしやあげあし取りにたいしてもフランクに対応する。まるで、気安い友達のように冗談めかしていなす。
 「なんだよ○○、そんなに俺のことが気になるわけ?」
 「――ったく、俺のことで頭いっぱいだな」
 嘘でもいいから、そういうつもりになって対応する。自負を持って強気で、かといって怒らず嫌がらず、笑顔でおおらかに融和的に、相手を受け入れるように。自分を誤魔化し誤魔化しでとてもしんどかったけれども、少しずつ山を切り崩すように、ひとりひとり普通のクラスメートにしていった。
 わたしは彼らよりも貧乏でオタクでKYかもしれないけれども、その分、成績はいいし、押し出しはあるし、根は明るいし、おしゃべりなのだ。よくよく考えてみれば、びくびくする必要なんてなんにもなかったのだ。
 そうしているうちになんとなくわかってきたことがまたあった。わたしが「いじめ」と感じていた部分の一部は、わたしが彼らに対して頑なになって、心理的な壁を作っていたからこそ生じたものだったのでは、と。つまり、思い過ごしも多かった。たわいのないことで勝手に傷つき「いじめ」と感じていた部分も結構あったのだ。私も私で随分なものだったのだ。


 ひとまずこの段階で、わたしは「まこの中学一年・いじめ問題」をひとまずクリアすることが出来たのだが、ただ、ここには大きなひとつの問題が残っていた。
 結局「学校」というコミュニティーが自分にとって居心地のいい空間であるためには、常にクラスメートの関係性の網の中に囚われていなければならない。これが大問題だ。
 はっきりいって、わたしは生まれた時からの根っからのオタクなので「ただ意味もなくみんな仲良くつるんでいる」というのが死ぬほど面倒。「趣味のあわないつまんねー奴と一緒に盛り上がりもしないだるい話してなんになるの? そんなことより早くおうちに帰って明菜のCDで萌え萌えしたいにょっっ」と思いながら、適当にあわせるのがだんだんかったるくなってきたのだ。実家の事業が傾き、14歳に四国の松山に転居することになり、人間関係がそう入れ替えになったのもあってか、もはやその面倒くささはMAX。
 高校にはいった私は「自分、オタクだし―キモイしー。ってか、別にクラスで孤立しててもいいしー。そもそも学校とか、そういう場所自体興味ないんだよねー。好きに扱えばー」という超無防備戦法にでることにした。イタリアもかくやの無防備都市だ。
 これが見事に大成功した。本当にほっとかれた。勝手にバシバシ学校サボるし、休み時間にやおい本読むし、クラスで浮きまくるし、でもまあ、そういう人なんだから仕方ない。
 自分の扱いを自分も気にしないし、まわりも気にしない。あ、なに? これでよかったの? よかったのだ。
 その時わたしは思った。
 あ、そうか、いじめってのは、所属するコミュニティーを維持しようと努める人たちのしめすアレルギー反応みたいなものなんだなって。だから異物が異物のままで無自覚で内側にはいれば激しい反応が起こるけれども、わたしみたいに異物ですよ、だから外部にいますよ、あなた達の中にははいりませんよ、ってスタンスを明確にすれば問題ないのだな、と。
 そして思った。
 いじめている人って、自分でいっぱいいっぱいで、他者を受け入れる余裕のない人達なんだなぁ、と。価値観の同じ仲間で固めないと自分が不安で、だから周りの視線をびくびく読みあってお互い雁字搦めになっている、そういう心の弱い人なんだなあ。愚かでかわいそうな小人なんだなあ、と。


 この時から、わたしはいじめからかなりの部分フリーになった。
 わたしは変な人かもしれないし、嫌がる人もいるだろうし、それはしかたないことなんだし、気にすることじゃないんだ。時にはもしかしたら徒党を組んでいじめる人たちもでてくるかもしれないけれども、彼らは弱いだけなので怖れる必要はまったくないんだ。


 ただ、さっき言ったように「いじめ」は関係性の病気なので、色々あって人間性が腐りきって、他者の人格を踏みにじることにまったくためらいのなくなってしまった人とか、あるいはその逆の、自分の思い通りにならなければなんでもかんでもいじめられた、被害者だと喧伝する人もいる(――これって裏表だと思うな、他者を認めないという点ではまったく同じ)わけで、またそういういじめの関係性を誘発しやすい「場」というのもある(――パワハラとかセクハラの起こりやすいところってあるっしょ)。
 だから、まったくのいじめと無関係になれる人ってのはなかなかいないと思うけれども(――わたしは仕事に関してはいじめ的関係性に陥りやすい部分があるので気をつけるようにしている)、そういうどうしようもない人や場では、我慢できる範囲なら我慢して、それでもダメなら逃げるなりで、対処のしようはいくらでもある。大体やばい人ややばい場所ってのは、瘴気が漂って空気が重いし、だから人がいつかないし、なんとなくわかるものだ。
 要はみんないじめられる可能性もあるし、いじめる可能性もあるし、それは当人の責任でもあるけれどもそれだけの責任でもなくって、まあ、だから、病気なんだから、誰彼と責めてもしかたない。
 だから、病み始めたらこじれる前に周囲に相談するなりして治療すべきで、本気でヤバくなったら無理せず、手術(――という名の人間関係リセット)しろ、と。本来は不治の病ではないのだからさ。んで、回復したら、病にかからない体作りしようぜ、と。
 いじめって、愛と自負と少しばかり心の余裕があれば、誰だって克服できると思うのだ。
 ――ってわけで、わたしのいじめ話はおしまい。これが役にたつかどうかはわからないけれども、ただわたしがいいたいのは、新しい環境での人間関係の構築に失敗してしまったとしても「そんなの、大したことじゃないよ」ってことなのだ。