松田聖子「ガラスの林檎」

80年代の松田聖子の歌のよさというのは、明朗で健全そうな表層の内部に麻薬のような危険なあやかし、業を秘めた血の気配があって、それが常にほのかに漂うところなのだと思う。
それは彼女の歌唱表現に宿っているのはもちろん、大村雅朗松任谷正隆のアレンジ、ユーミン細野晴臣のメロディー、松本隆三浦徳子の詞にもやどっていたのだろう、――と思う。
その気配ゆえに、松田聖子の歌は、カワイイ小娘の無邪気なアイドルポップスとしての体裁を保ちつつも、それだけではない特別な何かたりえたのだろう。
その80年代の松田聖子の世界の究極の行き着く果ての一曲、と私が思うのが、83年の「ガラスの林檎」だ。作詞松本隆、作曲細野晴臣、編曲細野晴臣大村雅朗

蒼ざめた月が東からのぼるわ 丘の斜面にはコスモスが揺れてる

若い恋人たちの何気ない甘い風景を歌っているだけなのに、この曲には宗教的な気配に満ちている。女神の歌といってもいい。
「なにもかもが透き通っていくわ」というリリックに象徴されるように、ここにあるのは、血のあやかしを蒸留したからこそうまれた荘厳さだ。
ひとつの若い恋が成熟していくように成熟していった松田聖子の歌世界の究極が、ここだ。
松田聖子松本隆は、平明な若い男女の恋を歌いながら、ついに大いなる愛へと突き抜けていった。
この歌が、「あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭」グランプリ、「FNS歌謡祭」最優秀歌唱賞受賞、と、賞レースにおいてはあまり運のなかった松田聖子にしては珍しく大きな賞を得たのも当然のことといえる。
とはいえこの境地にたどり着いて果たしてその先がなにがあるのだろう、それはアイドルポップスといえるのか、とも言えるわけで、象徴的なのが、このシングルのカップリングにして、CMで話題になり後に両A面ともなった「SWEET MEMORIES」で、この歌は、今まで現在進行形でしか描かなかった恋の風景を過去形に、それも色味も古びてセピアとなった痛みすらも懐かしいと思える遠い過去へと針を振っている――この歌を、今の彼女の10歩先の世界と松本隆が語ったのは、そういうことだろう。
ガラスの林檎」は、デビュー以来連綿と続いた松田聖子の歌世界のまさしく絶頂といっていい。
この歌を境に「アイドル・松田聖子」はゆっくりとエピローグへと向かっていく。明朗そうで幸福そうな恋にも破局が訪れ、時には戯れの一夜の恋に溺れたり、あるいは手ひどい裏切りや激しい悔恨の念にさいなまれたり、そのようにして幼く無邪気な日々は少しずつ過去へとなっていった。
もちろん、その代わりに「瑠璃色の地球」や「LOVE」といったこの歌を通過したからこその作品にも繋がってゆくのである。